#6 バトン
八月。蟬のけたたましい大合唱が耳鳴りのように響いている。うだるような暑さだが、エアコンの効いた相談室は涼しい。「セイラ・カウンセリングルーム」が開業し、ちょうど一年が経った。クライアント第一号の久保田吉子の引きこもりだった息子もついに就職が決まり、セイラは大喜びしている。
「あら、よかったじゃない。」
「おめでとう。社割でお祝いのケーキ買わなくちゃ。」
長谷部がうちわをパタパタさせながら言う。中山も、心から喜んでいる。久保田親子の一年間は、相談室の一年間の軌跡そのものでもある。
午前中のクライアントが帰ったあと、中山がそうめんを茹で始める。セイラは基本、朝から夕方まで相談室に詰めている。最近は中山と長谷部も、物流センターのパートは週二日程度しか出ていない。そのため、ここでは昼食はたいてい、中山の夫も交えた四人で取る。
セイラが長谷部に声をかける。
「おばあちゃん、確認だけど、今日の午後、新しいクライアントがご年配のお二人をご指名だからね。」
一瞬の間があり、長谷部は首をかしげる。
「え?今日の午後、入ってたっけ。」
中山がすかさずカレンダーを指さし、
「長谷部さん、さっきそのこと話したじゃない。」
長谷部の達筆で、「十四時カウンセリング」と書かれている。
「なんか、そんな気もしてきた」
長谷部はケロッとした顔で笑っている。
中山も、ボケはわたしの専売特許でしょ、と言って笑っている。中山の夫も笑う。
セイラは、何も言わない。心の奥に、なにかが張り付いて取れないような、そんな感覚だった。
そうめんを食べ終わり、二階でクライアントを待つ。長谷部はテーブルにお茶請けの「味しらべ」をセットする。
「初めてお邪魔したときから思っていたんですけど、相談室に来るとなぜか落ち着くんです。娘さんのお部屋だったんですよね。」
中山が少し間を置いて言う。
「娘がね…この部屋でいつも『人のために何か作りたい』って言ってたのよ。何やってたかはよく知らないんだけど。」
「VIA-ISの眼鏡も、そのひとつなんですね」
中山がうなずく。
「『人の良いところが見えたら、世界はもっと優しくなる』って言ってた。でも新婚旅行のすぐあとかしら。会社の健康診断で病気が見つかってね。あっという間だった。」
長谷部が静かに言う。
「中山さん。娘さん、ちゃんと遺してくれたわね。あの眼鏡は、今もここで生きてる。」
中山が笑う。目の端が少し光っている。
そのとき、ふとセイラは思った。さっきまで一緒に食卓を囲んでいた中山の夫——ご主人もまた、中山と同じ悲しみを背負っている。あの優しい笑顔の裏で、どんなつらい、悲しい思いをしてきたのだろう。
後で聞いた話だった。
娘さんを亡くしたあと、中山の夫は憔悴しきってしまったという。大好きだった旅行も登山もしばらく行けず、家の中でもあまり口をきかなくなった。ある日、中山がトイレのドアの前を通りかかったとき、中から小さな嗚咽が聞こえたという。
彼は、誰にも見られない場所で、一人で泣いていた。
中山はそのまま、何も言わずに立ち去った。
「あの人は、いつも優しい人だから。そういう姿を見せない人なのよね。娘が亡くなって二年くらい経った頃かしら、『塩の道』を歩こうって言ってくれたのよね。それからまた旅行するようになって。」
「塩の道?」
「そう、司馬遼太郎の。『敵に塩を送る』って知らない?」
「知ってます。戦国時代に上杉謙信が武田信玄に塩を送った。」
「そう。松本から新潟までのね。千国街道って言うんだけど、あの辺りは、戦国時代に塩を運んだ道なのよ。信玄は敵の上杉に塩を絶たれて苦しんでたんだけど、上杉が逆に塩を送って助けた。『塩の道』って呼ばれてる。」
「はい。歴史の授業で習った気がします。」
「主人、司馬遼太郎の『街道をゆく』が大好きなのよ。塩の道を歩いているときにふと、『娘も、こんな景色を見たかったかもしれない』って言ったの。そのとき、わたしは初めて、『ああ、この人は娘の分まで生きようとしてるんだ』って思ったのよね。」
セイラは中山の話を聞きながら、いつも穏やかな笑顔で、中山と共に生きる、中山の夫の痛みを、思った。そして、人生の伴侶、という言葉が浮かんでいた。
その夜。セイラが長谷部の家に泊まりに行く。部屋はいつもどおりきれいで、思わずほっとため息が出る。
二人で昔のアルバムを開く。セイラが凱旋門の写真を見つけて、喜ぶ。
「そうそう、パリよ。」
長谷部は写真を指でなぞる。
「この旅行から帰って、貴女のお父さんがお腹にいるってわかったのよ。相手とは、それっきりだったけど。」
アルバムのページをめくると、パリの写真の次に、セイラの父親が幼い頃の写真が出てくる。庭先での花火、動物園や、遊園地。保育園の遠足。運動会。このマンションの前で撮ったものもある。百貨店に勤めながら女手一つで子育てするのは、どんなに大変なことだっただろう。
「お父さんが小さい頃の写真って初めて見たかも。ママのは見せてもらったことあるけど、あっちのおばあちゃんももう施設入っちゃったしなあ。」
「鼻はお父さんの面影があるわね。」
セイラは思う。
――おばあちゃんは、一人でここまで生きてきたんだ。わたしの知らない「おばあちゃん」が、ここにいる。
翌日。新しいクライアントが来訪した。五十代前半くらいの女性だ。
「加藤と申します。夫を亡くして、もう半年です。何もやる気が起きない。生きている意味がわからない。」
セイラは、じっと加藤の話に集中する。長谷部と中山も、神妙な面持ちで耳を傾ける。
「夫は、わたしに『最後まで一緒にいよう』って言ってくれたんです。でも、わたしは最後まで一緒にいられなかった。仕事を理由に、病院にあまり行けなかったんです。うちは子どももいなくて、ずっと二人だったものですから。」
加藤は何度も「ごめんなさい」と口にした。
セイラはその言葉を否定しなかった。ただ静かにうなずきながら、
「ご主人のことを、とても大切に思っていらしたんですね。」
とだけ返した。
加藤は少し驚いたように顔を上げ、それから小さくうなずく。
「はい……。だから余計に、後悔ばかりで。」
セイラは急いで励まそうとはしなかった。悲しみには、結論よりも先に、受け止めてもらう時間が必要だと知っていた。
しばらく静かな時間が流れた。長谷部はオーラを視る。
――彼女のオーラは、青と赤、黄色や緑もある。なかなか色鮮やかなのだけど、やはり白く濁り、本来の色に見えない。
「霧があるわね。すごく鮮やかな色なのに。」
中山は眼鏡をかける。加藤の強みを見る。「愛情」と「好奇心」「ユーモア」が強いはずだが、今は発揮されていない。
「愛情、ね…。」
中山のつぶやきを聞き、セイラが静かに話す。
「ご主人を亡くされて、お辛かったですよね。」
長谷部は言う。
「映画はお好き?」
加藤は首を横に振り、うつむく。だが長谷部は淡々と話す。
「『カールじいさんの空飛ぶ家』って映画があるのよ。」
加藤は顔を上げ、長谷部を見る。
「子ども向けだけどね。奥さんを亡くしたおじいさんが主人公なのだけど、奥さんのエリーから『一緒に冒険してくれてありがとう、次はあなたの新しい冒険を始めてね』ってメッセージをもらうのよね。貴女も今、ここから自分の新しい人生を選んでいいのよ。」
中山が思わず長谷部の言葉に涙を流し、うなずく。
「娘を亡くしたとき、わたしも同じだったの。愛する人を失うことは、ほんとうにつらいわよね。でも、娘は『人のために何かを作りたい』って言ってた。今、この相談室があの子の『何か』になってるんじゃないかって。」
加藤が涙をこぼす。
セイラが、ゆっくりと語りかける。
「亡くなった人のことを忘れずに想い続けるだけでも、いいんじゃないでしょうか。今、こうやってご主人のことを思い出して話してくださっていますからね。大丈夫ですよ。ゆっくりでいいんです。」
加藤が帰ったあと、ふと、中山がつぶやく。
「『カールじいさん』って、『カールおじさん』だと思っちゃった。」
「中山さんそれ、お菓子じゃない。」
三人は大笑いする。
「セイラちゃん。娘は、眼鏡だけじゃなくて、この部屋に『心』を遺してくれた気がするのよね。」
長谷部も、しっかりとした声で続ける。
「人って、物よりも、心を遺すのかもね。わたしなんか、この歳でしょ。周りは亡くなるばかりよ。明日は我が身よね。」
「いやいや、まだまだ現役でしょ。」
セイラと中山は長谷部を、微笑みながら見つめる。
その夜。
長谷部は麦茶を片手に、一人でアルバムを開く。エアコンのない熱帯夜だが、五十年間現役の扇風機が大活躍して首を振っている。
パリの写真。若い自分。セイラの父親。孫の誕生。セイラの両親は、交通事故で他界している。
「運命は映画より数奇よね。」
一方、セイラは康子に電話していた。
「ちょっと久しぶり。忙しくてさ。」
「カウンセリングルーム、大繁盛でよかったじゃん。頑張ってんね。ところで、クルド人の件、教授に話したら『在留特別許可』の申請をサポートしてくれるっつってる。具体的な手続きがまとまったら連絡するから。」
「ありがとう。すごい助かる。ところで、なんか声が浮かれてる…?彼氏できた?」
「え、違う、違うから!」
「いるんでしょ!康子ってぜんぜんそういう話…」
「もう切るよ!おやすみ。」
つっけんどんな言い方だが、康子の声は明るく、弾んでいた。電話を切って、ふう、とため息をつく。そのとき、またスマホからLINEの着信音が鳴る。康子だ。
「やっぱり、セイラにだけは言っとこうかと思って。」
「どうしたの?」
「わたし、結婚する…かも。」
一瞬、驚きのあまり無言になってしまう。こういうとき、なんていうんだっけ、と考えてから、セイラは慌てて言った。
「おめでとう。」
「ありがとう。あ、結婚式はしないからね。学生結婚だし、それにわたし仲良かった友達、捕まるか死んじゃうか、ヤクザ入るか…あとは縁切っちゃったから。セイラぐらいしか友達いないからさ。」
話し終えて、スマホの終話ボタンをタップする。人生の伴侶かあ、と思わず口元がほころぶ。
いろいろ、気にかかることはあるけれど、起きてもいないことを案じても仕方ない。毎日は続いていく。今日という日も、誰かが誰かに「バトン」を渡した日だった。そう思って、セイラはスマホを置いた。




