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霧のむこう  作者: テツコ
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#5 不法滞在

 四月。物流センターの空気には、もう夏の気配が混ざり始めている。くずきりや水ようかん、ゼリーの入荷が始まり、倉庫の片隅には涼しげなパッケージが積まれていた。

「今年から詰め合わせもリニューアルしたので、新しいパンフレットを各自持ち帰ってくださーい。」

 課長が声を張り上げる。パートたちが一斉にパンフレットのほうへ向かう中、ひとり打刻機に向かう長谷部の背中があった。

「あら、長谷部さん、パンフレットいいの?」

「どうせまた変わるんだから、覚えなくていいのよ。」

 パートさんたちの間に、不安そうな空気が流れる。長谷部は気にした様子もなく、タイムカードを押す。その手つきは確かだったが、それを見つめる中山は、なにか引っかかりのようなものを感じていた。

「長谷部さん、駅まで送ってくわよ。」

「中山さん、白衣着て帰るの?」

 中山は衛生用の帽子とマスクはしっかり取ったが、白衣を着たままだった。

「やだ!いつかやると思ってたのよ。」

 長谷部とほかのパートさんも大笑いしていた。


 その日、中山が帰宅すると、ちょうど久保田吉子がカウンセリングを終えて帰るところだった。

「あら、中山さん、おかえりなさい。お邪魔しています。」

「久保田さん、ただいま!なんちゃって。お元気そうね。」

「息子がね、ハローワークに行くようになったんですよ!」

 久保田の顔は輝いていた。中山も嬉しそうにうなずく。

「それはよかったわね!ゆっくりでいいのよ。山登りも、会話できるくらいのペースで無理しないのが一番大事だから。」

「はい。ありがとうございます。」


 久保田が帰ったあと、セイラが階段を下りてくる。

「お疲れ様です、中山さん。おかえりなさい。」

「ただいま。セイラちゃんもお疲れ様。ねえ、それより康子ちゃんの大学、どうなった?」

 セイラがにっこり笑う。

「あれ、祖母から聞いてないですか?決まったんです!社会人枠で法学部。明日は御暇いただいて、祝賀ランチしてきます。」

「まあ!それはよかったねえ!長谷部さんとしっかりお留守番してますから。ここは任せて。」

 中山が拍手する。セイラはご機嫌だ。

「じゃあ、おまかせしちゃおっかな。ところで、おばあちゃんこの間、二時間も鍵を探してたって言って。職場ではいかがですか?」

 中山は一瞬、考えるような表情になったが、すこし強い口調で答える。

「しっかりしてるわよ。」

「じゃあ、大丈夫かな。すみません。」

 セイラは頭を下げたが、中山の一瞬の表情の変化を見逃してはいなかった。


 翌日。セイラは久しぶりに康子と都心でランチをする約束をしていた。相談室には予約が入っていなかったので、安心して出かけられた。


「こんにちは。来たわよ。」

「いらっしゃい。」

 セイラが出かけてすぐに長谷部が中山宅に来る。ふたりで職場の話やら、新しい詰め合わせのことや、包装紙や上司の愚痴、ああでもないこうでもないと話題が尽きない。すると、

――ピンポーン。

「はい!今…。」

「…あら。」

 玄関に立っていたのは、三十代半ばくらいの外国人男性だった。痩せていて、目の下にクマがある。スーツは決して高級とは言えないものだったが、きちんとアイロンがかかっている。

「…あの、ここ、相談できるって聞いて。セイラ・カウンセリングルームって。…どうせ聞いてもらえないかもしれないですが。」

 彼はそう言った。なまりのある日本語だった。少し、イライラしている様子だ。

「どうしましょう。わたし外国人って怖いのよ。」

 中山が玄関で小声で言う。長谷部も顔をしかめる。

 実はふたりは、外国人に苦手意識があった。テレビのニュースで「不法滞在の外国人による犯罪」などの言葉を何度も見てきたからだ。


 中山が戸惑いながらも招き入れる。長谷部は一歩下がった位置から、彼を観察していた。

 彼の名前はハサン。トルコ出身のクルド人だと言う。

「難民申請をしているんです。でも、もう三回目で…。これで認められなかったら、強制送還されるかもしれない。帰ったら、多分殺される。最近、不安で眠れない。」

 中山は息を飲んだ。長谷部も、黙って彼のオーラを視る。

「不安で霧はかかっているものの、きれいな金色が見える。紫もあるわ。恐怖と、希望が混ざっている。」

 中山が眼鏡をかける。ハサンの頭上に浮かぶ文字が視えた。

 忍耐力。

 誠実さ。

 勇気。

「本当に強い人ね。」

 中山がつぶやく。その言葉に、ハサンは少し驚いたように目を見開いたが、すぐにうつむいた。

「…ありがとうございます。」

 その日は、外国人が怖いふたりはハサンを帰してしまった。「若い先生が戻ってから、改めて来てください」と伝えた。ハサンは素直にうなずき、また明日来ると言って去っていった。


 翌日。セイラ同席のもと、ハサンのカウンセリングが始まった。

 ハサンは同じ話を繰り返した。難民申請のこと、三回目だということ、帰ったら殺されるかもしれないということ。

 セイラがハサンの話を詳しく聞こうとしたとき、長谷部が口を開いた。

「難民申請って、何度もできるものなの?ふつう一回で決まるんじゃないの?」

 ハサンの顔が一瞬、曇る。中山も続ける。

「『不法滞在』ってテレビでやってるわよね。そういう人たちって、ルールを守ってないんじゃないの?」

 部屋の空気が凍る。ハサンはうつむく。

「…わかってます。ワタシたちが『ルールを守らない外国人』って言われてることも。でも…。」


 セイラは静かに口を開く。

「おばあちゃん、中山さん。ちょっと待って。ハサンさんの話を最後まで聞こう。」

 セイラが静かに言い、そしてハサンに向き直る。

「ごめんなさい。もう一度、最初から話してもらえますか?」


 ハサンは頷き、話し始めた。

「トルコでは、クルド人はクルド語を使うことを禁止されています。話すと罰せられる。ワタシの父は政治活動をしていて、何度も拘束されました。殺されるかもしれないと思って、日本に逃げてきました。」

「最初は正規のビザで入国しました。すぐに難民申請をした。でも、不認定。次も不認定。その間に在留資格が切れて、『不法滞在』になりました。『帰りたいですか?』って聞かれることがあるけど、帰れない。帰ったら、ワタシも父と同じように…。」

 ハサンの声が震える。


 セイラはメモを取りながら、考えていた。

――難民申請をすればするほど在留資格を失い、「不法滞在」としてレッテルを貼られる。助けてほしい人が、助けを求めるだけで「犯罪者」になる。そんなことが、あっていいの?


 長谷部がもう一度、ハサンのオーラを視る。さっきとは違う。彼が自分の話をしている間、あの金色の光が、少しだけ大きくなっている。


「ちょっと、長谷部さんと中山さんにお願いして、一旦離席しますね。」

 セイラが席をはずす。康子に電話をするためだ。


 その間、長谷部と中山がハサンと話していた。

「ハサンさん。」

 長谷部が静かに言う。

「さっきはごめんなさい。映画ってね、悪役にも必ず『そうなった理由』があるの。理由のない悪役が出てくるようなのは、だいたいB級映画なのよ。」

 中山も眼鏡を外す。

「『ルールを守ってない』って言ったじゃない。わたし、主人とよく登山するんだけどね。たまに道を間違えるのよ。でも間違える人は悪くないのよね。たいてい道標が悪いのよ。あなたは悪くない。頑張ってるもの。」

 ハサンの目に涙が浮かぶ。

「初めてです。『あなたは悪くない』って、言われたの。」


 一方、スマホを持って一階に降りたセイラは、康子に電話していた。

「康子、急にごめんね。お客さんがクルド人の難民申請者で、カウンセリングの方はしていくんだけど…三回目の申請も認定されなさそうなの。そっちは専門外だから。何か方法ない?」

 電話の向こうで、康子が考えるような間があった。

「わたし、まだ入学したばっかだよ(笑)。うーん、『在留特別許可』ってのが申請できるかも。法務大臣がオッケーなら、みたいな?ただ、ハードルは高いと思う。わかんないから、詳しそうな教授に聞いてみる。」

「康子、ありがとう。お友達できた?」

「世代が違うから、十代とは話題も合わないけど。講義でいつも隣に来る子と、お昼一緒に食べてる。」

「よかったじゃん。」


 二階のカウンセリングルームでは、ハサンとすっかり打ち解けた長谷部と中山が大笑いしている。

 おなじころ、セイラの笑い声が二階のカウンセリングルームまで聞こえてきた。

 セイラが戻ってきて、ハサンに伝える。

「すぐに結果は出ないかもしれない。でも、一緒に考えましょう。一人じゃないですよ。」

「法律のことは専門家に聞いてるからね。」

「わたしたちは心の整理なら手伝えるわよ。ここは相談室だから。」

 ハサンは、少しだけ口元を緩めた。それが、彼の「笑顔」だった。


 ハサンが帰ったあと、相談室に残った三人。テーブルに置かれたハッピーターンに手を伸ばしながら長谷部がぽつりと言う。

「『不法滞在』って言葉だけどさ。社会の仕組みによってそうなっちゃってるだけよね。」

 中山もうなずく。

「うん。ぜんぜん怖い人じゃなかった。話してみるとかわいい男の子よね。うちの息子より若いし。」

 セイラも誰に向かって言うでもなく、ひとりごとのようにつぶやく。

「ここにいると見えないことっていっぱいあるよね。わたしなんて、本当に苦労してないや。だからこの仕事ができるのかもな。」


 しばらく、三人は何も言わなかった。四月の、まだ冷たいけれど、かすかな花の香りを乗せた風が、窓の外を通り過ぎていく。

 セイラは窓から、中山家の前にある公園を見る。桜はとっくに散っている。季節は、たしかに、流れていく。


 その夜、長谷部は本棚から『タクシードライバー』のパンフレットを探していた。

 古びたパンフレットのページをパラパラとめくり、閉じたあとにこたつの上に置くと、誰もいない家でこうつぶやいた。

「トラヴィスは何も変わっていない。変わったのは映画ではなくわたしなのよね。」

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