#2 真善美
「中山さんのそれ、VIA-IS(※)だよね。」
長谷部の孫、セイラがそう言うと、
「なに、ビアって。」
「ビアガーデンなら知ってるわよ。」
長谷部がうちわをぱたぱたとあおぐ。七月の午後。セイラのアパートのリビングはエアコンの風が涼しい。
セイラは冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップへ注ぐ。
祖母から「お局さん」の出来事は聞いていた。
人の、オーラが視える祖母。
人の、強みが視える眼鏡。
そして、たった一日の出来事で変わり始めた一人の女性。
本当にそんなことが起きたのだろうか。そんなの、あり得るのだろうか。臨床心理士のセイラは、まだ半信半疑だった。
「っていうかさ。ふたりとも、まだエアコン買わないの?」
コップを置きながら言う。
「毎年ニュースでやってるじゃん。高齢者の熱中症。中山さんはまだ若いからいいけど、おばあちゃん、もう八十歳なんだから。」
「いいのよ。セイラの家で涼めば。」
「そういう問題じゃないんだけど…。」
セイラは苦笑いしながら、中山の眼鏡をそっと掛けた。
――視えた。
祖母の頭の上に、小さな文字が、順に浮かんでいる。
愛情。
誠実さ。
ユーモア。
眼鏡を外しながら言う。
「VIA-ISっていうの。強みの心理学。人の良いところを二十四種類の強みとして研究したもの。真善美の価値観みたいなものかな。」
眼鏡を見つめながら続ける。
「…娘さんの遺品なんですね。」
「なんか色々作ってたのよね。だいたい失敗してたんだけど。」
中山は笑う。
「おばあちゃんの『オーラが視える』って話は、正直信じがたいけど。でも、この眼鏡は実際かけたら視えちゃうんだから否定できないよね。」
「そうなのよ!」
長谷部がうちわを掲げて嬉しそうに笑う。
「視えない人に信じろって言っても無理よ。だって視えないんだもん。でもね、わたしは小さい頃から、ずっと色が視えてるの。」
セイラは苦笑した。
「こんな話したら、普通は誰も信じないわよ。」
「康子なんか、ニコリともしなさそう。」
長谷部が首をかしげたあと、はっと目を見開く。
「ああ、中学の友達の康子ちゃん、あの子元気なの?」
「うん、法学部目指して毎日勉強してる。おばあちゃんオーラ視て根は真面目だって言ってたけど…昔ほんと悪かったから。」
「どれくらい?」
「ヤクとウリ以外。」
「範囲広すぎよ。」
三人で笑った。
話題が次々と脱線するおばあちゃんたちを横目に、セイラは黙り込んだ。
頭の中では、臨床心理士としての思考が止まらない。
勤務先のカウンセリングルームでは、毎日さまざまな相談者と向き合っている。もちろん、心理学は人を救う力になる。けれど現実は、そんなに簡単ではなかった。
何度も面談を重ねても、自分を責め続ける人。
「少し楽になりました。」
そう笑って帰った翌週には、また深く落ち込んでしまう人。
資格を取るために必死で勉強した。臨床心理士になれた日も、本当にうれしかった。それなのに。
――わたしは、本当に人を助けられているんだろうか。
そんな問いが、心のどこかにずっと残っていた。
オーラは科学では説明できない。
この眼鏡を作ったのは、中山の夭逝した娘さんだ。仕組みを聞こうにも、もうこの世にいない。
二人が見ているものは、どちらも人の「善い部分」だった。そのことを、セイラは自分の仕事と重ねて考えずにはいられなかった。
勤務先のカウンセリングルーム。
「眠れていますか。」
セイラは穏やかに尋ねた。
「少しだけ。」
クライアントの三十代女性は、小さく笑う。
「ついついお布団でスマホ見ちゃって。」
認知行動療法、セルフモニタリング、呼吸法…。
少しずつ積み重ねてきた。
「最初に来た頃より、お顔がお優しくなりましたね。」
「そうですかね?」
「ええ。」
女性は照れくさそうに笑った。
「先生のおかげです。」
その言葉は、うれしかった。
けれど。
相談室を出ていく後ろ姿を見送りながら、セイラは思う。
――この人は、本当にもう大丈夫なんだろうか。
また一人で苦しくなったとき。
わたしがいなかったら、この人は、自分の力で立ち上がれるだろうか。
相田は、たった一日で変わった。いや、変わり始めた。
もし、この二人の「視える」を、心理学の「言葉」にできたなら…もっと多くの人へ届けられるかもしれない。
その日からセイラは、本気で考え始めた。
それから一か月後。蝉のけたたましい鳴き声が猛暑を知らせる。
セイラは中山の自宅を訪ねていた。先月の話し合いで、「事務所は中山さんの家の一角をお借りしよう」ということになっていたのだ。
「中山さんの娘さんのお部屋を事務所にさせてもらえてよかったよね、これから経費でエアコンつけられるし。それにふたりとも、うちに来なくてよくなるでしょ。」
二階建ての戸建て住宅を見上げながら、セイラは言う。中山の夫が毎日大切に手入れしている庭に、ミニトマトやオクラ、ピーマン、大葉など数々の野菜が生い茂っている。居間に長谷部とセイラを通しながら、中山が答える。
「うれしいわ。娘の眼鏡と部屋がお役に立てて。わたしはエアコン好きなのよ。でも主人がエアコン好きじゃないって言うから、穴も塞いじゃったのよね。」
中山が部屋の引き戸を開けた。小さな机、本棚が並ぶ。シンプルな衣装ケース。なにもないと言えば、ない。
「お嫁に行くときにぜんぶ持っていっちゃったから、何もないのよ。」
生活の気配は消えているのに、不思議と寂しくはなかった。
セイラは一歩、部屋へ足を踏み入れる。
――あれ。
胸の奥が、すっと静かになる。
理由は分からない。
「なんか、この部屋落ち着くね。」
「ここがこれから『真善美相談室』になるのよ。看板は『セイラ・カウンセリングルーム』だけどね。」
長谷部がうちわであおぎながらそう言った。
「ほら、今オーラがぱっと明るくなったわよ」
どっと笑いが起きた。カウンセリングルームの封切りは、二週間後に迫っていた。
※VIA-ISとは?
作中に登場する「VIA-IS」は、ポジティブ心理学で研究されている「24の性格の強み(キャラクターストレングス)」です。
「自分にはどんな善いところがあるんだろう?」と思った方は、ぜひ診断を受けてみてください。
日本語での解説はこちら
https://wellbeing-education.org/signature-strength
VIA-IS診断(無料)
https://www.viacharacter.org/survey/account/register




