#1 夜明け前
工業団地の一角に、その物流センターはあった。この近辺には似たような工場が立ち並び、産業道路を長距離トラックが絶え間なく行き交う。段ボールと、少しカビくさいエアコンの匂いが混ざった朝。
ここは名の知れた某有名菓子会社の物流センターである。一階では数名の男性がフォークリフトでパレットを移動させている。店舗へ出荷する段ボールや、納品された箱詰め前の菓子類であふれていた。
休憩室の窓からは、向かいのコンビニが見える。体格のよい女性が家電量販店の青いエコバッグを提げてコンビニから出てくるところだ。彼女は、「お局さん」と呼ばれていた。
長谷部知子は鼻歌を歌いながら、次々とクッキー缶へリボンを掛けていく。御年八十歳。百貨店勤務経験があり、いわゆる「デパート包装」と呼ばれる完全包装ができる、数少ないスタッフだった。
「中山さん、次ピッキングわたし行くから、台車をエレベーターにのせてくれる?」
「オッケー!」
長谷部は鼻歌を歌いながら、焼菓子の数をピッキング表に記入する。老眼鏡を外し、ふと顔を上げた。
…ああ、「お局さん」のオーラが見えるわ。
いつも笑顔でおしゃべりをしながら、明るく仕事をしている。声を荒げることもないし、一見、ムードメーカーにも見える。
だが、「お局さん」が誰かと話したあとだけ、空気が少しひんやりする。新人が離れていく。誰も逆らわない。上司でさえ、顔色をうかがう。
長谷部には、その理由が視えていた。
彼女の身体を覆うオーラはまっしろく濁り、濁りすぎて、本来の色がまったく分からない。
「霧だわ。」
ぽつりとつぶやく。
「え?栗?何か言った?わたし、いつか空のエレベーターに台車入れて、そのまま落下させそうなのよね。」
隣で箱を折っていた中山弘子が首をかしげている。
「違うわ。」
「カニ?」
「もっと違う(笑)。あ、ピッキング表チェックしてよ。」
中山は「はーい!」と笑うと、バッグから老眼鏡を取り出した。
「あら、あんまり文字が見えないわ。娘の持ってきちゃったかしら。」
掛けた瞬間、中山の表情が止まった。
「あら…?」
人の頭の上に、小さな文字が光って浮かぶ。
比較的中堅の松木さんには、
誠実さ。
愛情。
ユーモア。
保育園ママの谷口さんには、
愛情。
勇気。
感謝。
一人ひとり違う色で揺れている。けれど、あの女性だけは違った。光は、ある。あるのだけれど。
「…薄いわね。」
「中山さん、チェックまだ?」
「この眼鏡…。」
「どうしたの?」
「長谷部さんが言ってる『オーラ』、信じてもいいかも。」
中山は眼鏡を外しながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
その日の昼休み。休憩は全員一斉に取ることになっている。その日の稼働パートはベテランの二人と、「お局さん」こと相田を含めた五人だった。
中山は偶然を装って、相田の隣へ腰を下ろした。
「今日は主人のお弁当も作ったわよ。」
「あらー!そうなの?ところでさ、今度の新人さん、すっごい野暮ったくない?化粧っ気もないしさ。」
相田はニターッと笑いながら同意を求める。いつもこうだ。誰も逆らえない。ふたりの主婦パートが苦笑いをする。
その沈黙を、長谷部が破った。
「映画って、不思議なのよ。」
「映画?」
「悪役が出るじゃない。」
「まあ、出るよねえ。」
「うん。」
長谷部はうなずいた。
「でもね、本当のワルって、案外少ないの。ウィキッドもマレフィセントも、そうだったでしょ。」
相田はスマホを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「悪く見える人のほとんどは。」
長谷部は静かに続ける。
「怖くて、先に人を遠ざけてしまうのよ。」
その瞬間、相田の指が止まった。
また画面をスクロールする。しかし、もう文字は頭に入ってこなかった。
――違う。そう思いたかった。けれど、その言葉は胸のどこかに静かに引っ掛かった。
中山は眼鏡越しに相田を見つめる。
「相田さん。本当は、とても気を遣う人でしょう。」
「違いますぅ!何言ってんの!」
いつものようにガハハ、と笑う。いつもそうだった。笑えば終わる。誰も踏み込んでこない。
「言われるのが怖いから。」
長谷部は静かに言った。
「だから先に言っちゃうのよ。」
フォークリフトのブザーが遠くで鳴る。
「その鎧、重いでしょう。」
相田は初めて二人の顔を見た。
「それ、重いから脱がない?」
責めるでもなく、
諭すでもない。
ただ、その言葉だけが静かに響いた。
相田は、そこにいてもいいと言われたような気がした。
中山は胸へそっと手を当てる。
「ここ。」
「まだ光ってるのよ。」
「…。」
相田はもう一度笑おうとした。
「あはは、そんな――」
言葉が続かなかった。顎から力が抜ける。手に持っていた菓子パンが机へ滑り落ちた。
乾いた音。一粒。また一粒。包装フィルムへ涙が落ちる。
「あれ……。」
頬を触ると濡れている。
「なんで…?」
何年ぶりだろう。泣くことを、自分の身体はまだ覚えていた。
「相田さんには、いいところがたくさんあるわ。」
中山は微笑む。
「視えてるもの。」
誰も話さなかった。おしゃべりの絶えない昼休みなのに、不思議なくらい静かだった。
相田はしばらく机だけを見つめていたが、やがて、絞り出すように言う。
「……嫌われたくないの。」
長い沈黙。
「怖いのよ。」
長谷部は、ただ頷いた。
「そう。」
それだけだった。
責めない。
慰めない。
正そうともしない。
その日の午後。
相田は何度も新人へ声を掛けようとしては、やめた。
いつもの癖で陰口を言いそうになり、飲み込んだ。
帰り際。人気のない休憩室で鏡を見る。自分の顔が、思っていたより疲れていた。
退勤後、一人で事務所の戸を叩いた。
翌朝。
新人が包装紙を破ってしまった。
いつもの相田なら、大きなため息をつくか、ヒソヒソ陰口をたたき、笑っただろう。
口が開く。言葉が出かかる。
――違う。
一度だけ深呼吸した。
「大丈夫よ。」
ぎこちない笑顔だった。
「最初はわたしもできなかったよ。」
新人は目を丸くした。
「ありがとうございます。」
その一言に、相田の胸が少しだけ軽くなる。完璧には変われない。それでも、一歩だけ昨日とは違う自分になれた。
その様子を見ながら、長谷部は小さく笑う。
「あら。」
「安い昼ドラが、ミニシアター系のヒューマンドラマになったわね。」
中山も吹き出した。
「ソフトクリームでも食べたくなる終わり方ね。コンビニ寄っていく?」
物流センターに、小さな笑い声が響いた。
その日から、センターの空気が少しだけ軽くなった。相田のオーラは、まだ完全には晴れていないが、それでいい。
どれだけ朝日がさしても、凍えた地面はすぐには溶けない。けれど霧は、少しずつ晴れていく。
淡い桜色が、静かに灯っていた。




