第5話 筆談
スマホの中に井戸女が住みついて、二週間が経った。
最近の井戸女は、もはや幽霊より人間に近い。
パーカーは気に入ったらしく、毎日着ている。フードは被ったり被らなかったり、その日の気分があるらしい。
処分予定の服の中からチェックのシャツも引っ張り込んでいたが、着方がわからなかったようで、ボタンを全部留めたまま頭から被ろうとして首が詰まっていた。
翌日見たら、ちゃんとボタンを開けて羽織っていたから、一晩かけて研究したのだと思う。
髪は、ヘアオイルのおかげで見違えるほどきれいになった。最初の頃のバサバサが嘘みたいに、光が当たるとつやっと光る。
ホラー映画に出てきたら、「この幽霊、ヘアケアめっちゃされてるな」と突っ込まれるレベルだ。
◇◇
ある水曜の夜。
中間テストが来週に迫っていて、さすがの私も机に向かわざるを得なかった。
数学のワークを開いて、シャーペンを走らせる。
ふと、視線を感じた。
机の端に立てかけたスマホの画面の中で、井戸女がこちらを見ていた。
髪の隙間から覗く瞳が、私のノートとシャーペンをじっと見ている。
「……なに?」
井戸女がじっとこちらを見た後、右手で空中に文字を書く真似をした。
何かを書きたいのだろうか。
◇◇
翌日の放課後、百均に寄った。
赤と黒のボールペンを一本ずつ。それとノートを買おうとしたが、画面に入らないことに気がついてメモ帳にした。
帰宅して、部屋に入る。
スマホを机に置いて、買ってきたものを画面の前に並べた。
「はい、これ」
井戸女は、画面から白い腕を出して取っていった。
ペンをじっと見ると、お尻の方を親指でぎゅっと押した。
昨日の私のシャーペンを見て、押せば書けるものが出ると思ったのかもしれない。
「このボールペンはノック式じゃないから。キャップを外すの」
手元にあったペンを持ち、実演して見せる。
それを見て、井戸女もペンのキャップを外し、ペン先をじっと見つめていた。
しばらくそのまま動かなかったので、私は数学のワークに戻った。テスト範囲はあと十ページもある。
テキストの問題を解きながら、ときどきスマホに目をやる。
井戸女はメモ帳を膝の上に広げて、ペンを持ったまま、紙の上で止まっている。
五分経ってもまだ動いていない。
カリ、と音がしたのは、それからさらに数分後だった。ペン先が紙に触れる音。
カリ、カリ。
ゆっくりとした、ためらいがちな筆跡の音が、スマホのスピーカーから聞こえてくる。
私はワークに目を落としたまま、聞いていた。
カリ。
音が止んだ。
顔を上げると、井戸女がメモ帳をこちらに向けていた。
白いページの真ん中に、黒いペンで何か書いてある。
『~~~~』
めちゃくちゃ達筆な字だった。
崩し字というのだろうか。習字のお手本みたいな、流れるような筆跡。百均のペンで書いているとは思えない。
「……読めないんだけど…」
何百年前の人かわからないが、こちとら現代人である。
申し訳ないが、読めない。
井戸女がメモ帳を手元に戻し、また何かを書き始めた。今度は少したどたどしい。
再び、こちらにメモ帳を向ける。
『ありがとう』
さっきの崩し字の横に、ひらがなで書かれていた。少し震えていたけれど、一画一画丁寧に書かれている。
スマホの中で現代のひらがなを学んだのか、今度は読める字になっていた。
「……どういたしまして?」
何に対するお礼かわからず、疑問形になってしまった。
井戸女が、再び何かを書いて見せてくる。
『くれーぷ おいしかった』
思わず笑ってしまった。
「また買ってくるよ。今度は何味がいい?」
井戸女はメモ帳を抱えたまま、少し考えるように首を傾げた。
カリ、カリ。
「いちご」
文字がさっきよりほんの少しだけ大きくて、ほんの少しだけ力強かった。
◇◇
その夜、歯を磨いて部屋に戻ると、井戸女はまだメモ帳に向かっていた。
何かを書いては線を引いて消し、また書いている。
何を書いているのかは、見えなかった。こちらに向けてこないということは、まだ見せたくないのだろう。
充電器にスマホを挿して、明かりを消す。
暗い部屋の中で、画面だけがぼんやり光っている。カリ、カリ、という小さな音がまだ聞こえる。
「おやすみ」
声をかけると、音が一瞬止まった。画面の中で、井戸女がメモ帳をこちらに向ける。
「おやすみ」
ページの端っこに、小さく書かれていた。
私は笑って、今日も画面を上にしたまま、枕元にスマホを置いた。
暗い部屋に、カリ、カリ、という音だけが静かに続いていた。




