第4話 おさがり
ヘアオイルの一件以来、井戸女は自分の髪をよく触るようになった。
画面の中で、長い黒髪を一房手に取って、毛先を撫でる。
お風呂上がりに毎回ヘアオイルをあげているからか、最初の頃より髪の毛がサラサラのつやつやになっていた。
髪質がいい幽霊というのは、ホラーとしていかがなものかと思う。
六月も後半に入った。
日曜の午後、母に「あんた、いい加減服の整理しなさい」と言われて、しぶしぶクローゼットと向き合うことになった。衣替えというやつだ。長袖を奥にしまって、半袖を手前に出す。
その作業の途中で、もう着ないだろうな、という服が次々に出てくる。
中学のときに買って、すぐに小さくなったカットソー。
一回袖を通したきりのチェックのシャツ。
サイズが合わなくなったもの、なんとなく着なくなったもの。
それらを全て畳んで、ベッドの上に山を作っていく。明日にでも資源ごみに出すつもりだった。
そのいちばん上に、グレーのパーカーを置いたときだった。
作業用に音楽を流していたスマホの画面の中で、井戸女が動いた。
髪を撫でていた手を止め、ベッドの上の服の山を見ている。
その視線の先を辿ると、山のいちばん上にあるのは、グレーのパーカーだった。
中学のときに買った、オーバーサイズのやつだ。
気づいたらぶかぶかじゃなくなっていて、でも捨てるきっかけもなくて、ずっとクローゼットの隅に残っていた。
画面を見ると、井戸女はまだ服の山を見ていた。
そういえば、と思う。この人はずっと白いワンピースしか着ていない。
あれしか持っていないのだとしたら、だいぶ不便ではないだろうか。
洗い替えとかできないし。幽霊に洗い替えが必要かどうかは知らないけど。
私はグレーのパーカーを持って、画面の前に軽くかざした。
「……いる?」
髪の隙間の向こうの視線が、服と私の顔の間を行き来する。
しばらくすると、それから画面の表面が、そろりと内側から押し出された。
白い腕が出てきて、服の端をつまんで、すっと引き寄せる。グレーの布が、液晶に吸い込まれるように消えた。
画面の中で、井戸女がパーカーを両手で広げた。裏返したり、袖を伸ばしたり。
それから、襟元から頭を突っ込もうとして、髪が引っかかって失敗していた。前髪のあたりがぐしゃぐしゃになっている。
井戸女はむっとしたように髪をかき上げた。パーカーを引き抜いて、もう一度広げる。
「そっちが前。タグがついてる方が後ろだよ」
声をかけると、井戸女はもう一度パーカーと向き合った。
今度は慎重に、タグと襟元を見比べてから頭を通し、片腕、もう片腕と袖に通していく。最後に裾を引っ張って整える。
白いワンピースの上にグレーのパーカーを着た井戸女が、画面の中にいた。
少し大きくて、肩のあたりがだぼっとしている。袖が手の甲まで隠れて、指先だけがちょこんと覗いている。
幽霊、という感じが、急に薄くなった。白いワンピースに長い黒髪、というのは、「そういう存在」の制服みたいなものだ。
それが、私の着古したパーカー一枚で、ただの髪の長い子みたいに見えてくる。
井戸女が、フードに気づいたらしい。
背中側で揺れる布を両手で引っぱって確かめて、それから、ぽすっと頭に被った。前髪とフードの陰で、顔はますます見えなくなる。
「……似合うじゃん」
言った瞬間、井戸女の動きがぴたりと止まり、フードの縁を両手できゅっと掴んで顔を隠した。
照れているんだと思う。たぶん。
フードを着た幽霊、というものを、私は生まれて初めて見た。
◇◇
その夜。
寝る前にスマホを充電器に挿すと、画面の中の井戸女は、まだパーカーを着たままだった。フードを被って、袖に隠れた手で膝を抱えている。
気に入ったのだろうか。
私は、明日ごみに出すつもりだった服の山をもう一度見た。
カットソー、チェックのシャツ、あと何枚か。
なんとなく、もう一日だけ置いておくことにした。たぶん、このうちの何枚かは、明日には画面の中に吸い込まれている。
「おやすみ」
声をかけて、いつもみたいに画面を伏せようとして——やめた。
画面を上にしたまま、明るさだけ最小にして、枕元に置いた。




