第3話 ヘアケア
スマホの中に井戸女が住みついて、一週間が経った。
最初の頃に比べると、井戸女は少しずつ画面の中で動くようになっていた。膝を抱えて隅にいることは減って、画面の中央寄りでぼんやり座っていることが多い。
一度クレープをあげてから、「食べ物はもらえるもの」と認識したらしい。たまに私が何か食べていると、画面の中からじっと見てくる。
お煎餅をあげたら、画面の中でぱりぱり食べていた。
プリンはスプーンの使い方がわからなかったらしく、最初は手で掬おうとしていた。スプーンの持ち方を画面越しに教えたら、ぎこちなく真似していた。
◇◇
夜の10時。
お風呂上がりの部屋は少し蒸していて、ドライヤーを使ったあとでも首筋にじんわり汗が残っていた。
私は机の前の鏡に向かって座り、ヘアオイルの瓶を手に取る。
うちの母が「女の子は髪が命なんだから」と言って買ってきたやつ。正直、命というほどではないと思うけど、毛先のパサつきはたしかに気になっていた。
スマホで動画を流しながら、片手にオイル、もう片手で毛先を掬い、馴染ませる。
机に立てかけたスマホの画面の中で、何かが動いた気がして、視線を上げる。
井戸女が、こちらを見ていた。
髪の隙間から覗く目が、ヘアオイルの瓶と毛先を撫でる私の指を、じっと追っている。
「……気になる?」
聞いてみると、井戸女は固まった。見ていたのがバレて気まずいらしい。
ゆっくりと顔の角度を戻して、何でもなかったみたいに膝に視線を落とした。
井戸女の髪は、かなり長い。腰よりずっと下まである。
ストレートヘアだからか、意外にもひどく絡まってはいない。けれど、艶が無く、少し傷んでいるように見える。
たぶん、何百年も手入れされていない。シャンプーもされていない。トリートメントなんて概念すら知らないかもしれない。
毛先は、見るからにバサバサだった。
「……ねえ」
呼ぶと、井戸女がゆっくり顔を上げる。
「手、出して」
しばらく動かなかった。意味がわからないらしい。私は自分の手のひらを差し出して、もう一度言った。
「こうやって、手のひらをこっち向けて」
数秒の沈黙のあと、画面がかすかに歪んだ。
そろそろと躊躇いがちに、白い指先が画面の表面を押し出してくる。
肘から先まで出てきたところで、手のひらを上に向けた。
私はそこに、ヘアオイルを数滴垂らした。
井戸女の指がぴくっと跳ねた。冷たかったのか、ぬるっとした感触に驚いたのか。
腕がすっと引っ込んでいく。
画面の中で、井戸女がオイルのついた手を、自分の頭にぺたっと乗せた。
違う。
そうじゃない。
猫が顔を洗うときみたいな手つきで、ぺた、ぺた、と頭頂部を撫でている。
前髪のあたりがオイルで張りついて、いつもの長い髪が変な束になっている。
「違う違う違う」
思わず声が出た。
「頭からじゃなくて、毛先から。毛先」
井戸女が手を止めて、こちらを見る。
どうすればいいのかわからず、戸惑っているようだ。
「……ちょっと、貸して」
私は自分の手にもう一度オイルを足して、画面の前に差し出した。
「髪、こっちに出せる? ちょっとだけでいいから」
井戸女はきょとんとした後、ためらいがちに、髪を画面に向けた。
長い黒髪の毛先が、ほんの数本、画面の表面からこちら側に垂れてくる。
私は指の腹で、その毛先をそっとつまんだ。
手のひらのオイルを、揉み込むように馴染ませる。
「毛先。ここからやるの。頭皮につけるとべたべたになるから」
毛先を指でしごくようにして、ゆっくり、ゆっくり馴染ませる。
最初は固まっていた数本の髪が、少しずつしっとりして、表面に艶が出てくる。
井戸女は、されるがまま動かない。
「……わかった?」
私が手を離すと、画面の表面から垂れていた髪が、するっと吸い込まれるように引っ込んでいった。
井戸女が、こくん、と頷いた。
画面の中で、井戸女が自分の髪の毛先を片手で掬って、もう片方の手のひらでそっと撫でた。
少しぎこちないが、さっきの私の動きの、たぶん見様見真似。
「そう、それ。上手」
褒めると一瞬動きが止まり、それからふい、とそっぽを向いてしまった。
私は机にスマホを置いて、自分の毛先にもオイルを足した。
井戸女も画面の中で、ゆっくり、ゆっくり、毛先にオイルを馴染ませていた。
冷静に考えると、やっぱりおかしい。
冷静に考えなくてもおかしい。
でも、井戸女の毛先が、ほんのちょっとだけまとまったように見えて、私はなんだか満足してしまった。
◇◇
その夜、寝る前にスマホを充電器に挿した。暗い部屋の中で、画面の明かりだけがぼんやり光っている。
画面の中の井戸女は、いつもの隅っこじゃなくて、画面の真ん中で座っていた。
膝の上に、自分の長い髪を一房乗せて、撫でていた。何度も、何度も。
確かめるみたいに。
私はおやすみ、と小さく呟いて、画面を伏せた。




