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貞子さんはスマホから出られない  作者: 一ノ瀬 このは


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3/6

第3話 ヘアケア

スマホの中に井戸女が住みついて、一週間が経った。

最初の頃に比べると、井戸女は少しずつ画面の中で動くようになっていた。膝を抱えて隅にいることは減って、画面の中央寄りでぼんやり座っていることが多い。


一度クレープをあげてから、「食べ物はもらえるもの」と認識したらしい。たまに私が何か食べていると、画面の中からじっと見てくる。

お煎餅をあげたら、画面の中でぱりぱり食べていた。

プリンはスプーンの使い方がわからなかったらしく、最初は手で掬おうとしていた。スプーンの持ち方を画面越しに教えたら、ぎこちなく真似していた。


◇◇


夜の10時。

お風呂上がりの部屋は少し蒸していて、ドライヤーを使ったあとでも首筋にじんわり汗が残っていた。

私は机の前の鏡に向かって座り、ヘアオイルの瓶を手に取る。


うちの母が「女の子は髪が命なんだから」と言って買ってきたやつ。正直、命というほどではないと思うけど、毛先のパサつきはたしかに気になっていた。

スマホで動画を流しながら、片手にオイル、もう片手で毛先を掬い、馴染ませる。


机に立てかけたスマホの画面の中で、何かが動いた気がして、視線を上げる。


井戸女が、こちらを見ていた。

髪の隙間から覗く目が、ヘアオイルの瓶と毛先を撫でる私の指を、じっと追っている。


「……気になる?」


聞いてみると、井戸女は固まった。見ていたのがバレて気まずいらしい。

ゆっくりと顔の角度を戻して、何でもなかったみたいに膝に視線を落とした。


井戸女の髪は、かなり長い。腰よりずっと下まである。

ストレートヘアだからか、意外にもひどく絡まってはいない。けれど、艶が無く、少し傷んでいるように見える。

たぶん、何百年も手入れされていない。シャンプーもされていない。トリートメントなんて概念すら知らないかもしれない。


毛先は、見るからにバサバサだった。


「……ねえ」


呼ぶと、井戸女がゆっくり顔を上げる。


「手、出して」


しばらく動かなかった。意味がわからないらしい。私は自分の手のひらを差し出して、もう一度言った。


「こうやって、手のひらをこっち向けて」


数秒の沈黙のあと、画面がかすかに歪んだ。

そろそろと躊躇いがちに、白い指先が画面の表面を押し出してくる。

肘から先まで出てきたところで、手のひらを上に向けた。


私はそこに、ヘアオイルを数滴垂らした。


井戸女の指がぴくっと跳ねた。冷たかったのか、ぬるっとした感触に驚いたのか。

腕がすっと引っ込んでいく。

画面の中で、井戸女がオイルのついた手を、自分の頭にぺたっと乗せた。


違う。


そうじゃない。


猫が顔を洗うときみたいな手つきで、ぺた、ぺた、と頭頂部を撫でている。

前髪のあたりがオイルで張りついて、いつもの長い髪が変な束になっている。


「違う違う違う」


思わず声が出た。


「頭からじゃなくて、毛先から。毛先」


井戸女が手を止めて、こちらを見る。

どうすればいいのかわからず、戸惑っているようだ。


「……ちょっと、貸して」


私は自分の手にもう一度オイルを足して、画面の前に差し出した。


「髪、こっちに出せる? ちょっとだけでいいから」


井戸女はきょとんとした後、ためらいがちに、髪を画面に向けた。

長い黒髪の毛先が、ほんの数本、画面の表面からこちら側に垂れてくる。


私は指の腹で、その毛先をそっとつまんだ。

手のひらのオイルを、揉み込むように馴染ませる。


「毛先。ここからやるの。頭皮につけるとべたべたになるから」


毛先を指でしごくようにして、ゆっくり、ゆっくり馴染ませる。

最初は固まっていた数本の髪が、少しずつしっとりして、表面に艶が出てくる。

井戸女は、されるがまま動かない。


「……わかった?」


私が手を離すと、画面の表面から垂れていた髪が、するっと吸い込まれるように引っ込んでいった。

井戸女が、こくん、と頷いた。


画面の中で、井戸女が自分の髪の毛先を片手で掬って、もう片方の手のひらでそっと撫でた。

少しぎこちないが、さっきの私の動きの、たぶん見様見真似。


「そう、それ。上手」


褒めると一瞬動きが止まり、それからふい、とそっぽを向いてしまった。


私は机にスマホを置いて、自分の毛先にもオイルを足した。

井戸女も画面の中で、ゆっくり、ゆっくり、毛先にオイルを馴染ませていた。


冷静に考えると、やっぱりおかしい。

冷静に考えなくてもおかしい。


でも、井戸女の毛先が、ほんのちょっとだけまとまったように見えて、私はなんだか満足してしまった。


◇◇


その夜、寝る前にスマホを充電器に挿した。暗い部屋の中で、画面の明かりだけがぼんやり光っている。

画面の中の井戸女は、いつもの隅っこじゃなくて、画面の真ん中で座っていた。

膝の上に、自分の長い髪を一房乗せて、撫でていた。何度も、何度も。


確かめるみたいに。


私はおやすみ、と小さく呟いて、画面を伏せた。

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