第6話 外に出たい
七月に入った。
スマホの中の井戸女にも慣れ、すっかり日常の一部となっていた。
たまにスマホを覗いてみると、メモ帳に練習した字が増えていることがあった。
ひらがなはもうほとんど書けるようになって、最近はカタカナと簡単な漢字に挑戦しているらしい。「くれーぷ」が「クレープ」になった日、なぜか少し得意げだった。
◇◇
その日、部活の見学に付き合わされて、帰りが遅くなった。
部屋に入って、鞄からスマホを取り出すと、画面が点いていた。
ロック画面に井戸女が立っている。両手で、メモ帳をこちらに向けていた。
『そとに出たい』
そう言えば、初めは外に出ようとしていた。
すっかりスマホの中にいることに慣れていたが、やはり本来の幽霊としての役割を果たしたいのだろうか。
「……呪うため?」
聞いてみると、井戸女はぶんぶんと首を横に振った。心外だ、とでも言いたげな勢いだった。
それから、メモ帳のページをめくって何かを書き、ページをこちらに向けた。
『くれーぷのおみせにいきたい』
もう一枚、めくる。
『かみをきってみたい』
また、めくる。
『ゆきといっしょにあるきたい』
最後の一枚を見せたあと、井戸女はメモ帳を少しだけ下ろした。顔は相変わらず前髪とフードの陰に隠れているが、なんとなく、こっちの反応を窺っている気がする。
私は画面の中を見た。
いつの間にか、井戸女の周りにはいろんなものが散らばっていた。
クレープの包み紙と、スプーンやストロー。
空になったヘアオイルの瓶とヘアブラシ。
私のお古のチェックシャツやブラウス、Tシャツ、スカート、デニム。
ファッション雑誌。
私に合わなかったメイク用品やスキンケア用品。
全部、私があげたものだ。
髪はヘアモデルでもできるのではないかというくらいサラツヤで、長い髪の隙間から覗く頬はチークでほんのりピンクに染まっている。
最近はファッション雑誌を参考に、スカートとブラウスでOL風ファッションをしたり、Tシャツとデニムでラフなファッションをしていたりしている。
どう見ても、ただの自分磨きに目覚めた少女だ。
きっと呪う気が無いのは本当なのだろう。
ただし、問題は出られないことだった。
スマホの画面は、6.1インチ。腕までは出せるが、肩は通らないし、頭も通らない。
私はふと部屋を見回した。机。本棚。ベッド。そして、ドアの向こう。
リビングのテレビ。
あれはスマホよりずっと大きい。テレビからであれば、出られるのではないだろうか。
「……ちょっと待ってて」
私はスマホを持ち上げた。
井戸女が、こちらを見上げて首をかしげた。
母は仕事で遅くなると連絡が来ていたし、父はもともと出張中。家には私しかいない。決行するなら今だった。
リビングに行って、テレビをつける。
四十インチ。我が家でいちばん大きい画面だ。スマホの隣に並べると、戦艦と手漕ぎボートくらい差がある。
テレビの電源を入れると、バラエティ番組が流れ始めた。
スマホをテレビの真下、テレビ台の上に置く。
「移動とかってできる?」
井戸女が、テレビの方をじっと見ている。それから、スマホの画面に手をついた。何かを確かめるみたいに、ぺたぺたと縁を触っている。
「…無理なら別の方法考えるけど」
少し間があり、テレビにノイズが走った。
ザッ、という音とともに、バラエティ番組の画面が砂嵐に変わる。やがて砂嵐の奥に、見覚えのある映像が浮かんでくる。
苔むした、古い井戸。
最早懐かしい光景だ。
無事に移動できたらしい。トリックはわからないが。
テレビの中の井戸から、白い手が縁にかかる。ずるり、と髪が溢れ出す。
井戸女が、井戸から這い上がってくると、画面に向かって近づいてきた。
画面がふくらみ、手が伸びてくる。白い腕が、肘が、肩が、画面からぬるりと出てくる。
頭が、出かかる。
長い黒髪が、テレビの縁を越えて——
ガチャ。
玄関のドアが、開いた。
「ただいまー」
母の声だ。予定より、二時間も早い。
「えっ」
頭が真っ白になった。テレビからは、井戸女が半分出かかっている。髪が、肩が、リビングのテレビからぶら下がっている。
ぶら下がったまま、私の顔とリビングのドアを交互に見ている。井戸女もどうすればいいかわからないようだ。
私はリモコンを掴み、適当なボタンを連打する。
チャンネルが変わると同時に、井戸女も消えた。
テレビには、何事もなかったように、明るいバラエティ番組が映っている。芸人が雛壇でわちゃわちゃ笑っている。
「あら、テレビ観てたの」
母がリビングに入ってきた。
「……うん、まあ」
声が裏返らなかったのは奇跡だと思う。
「お腹すいたでしょ。なんか作るね」
母がキッチンに消えていく。私は、テレビ台のスマホを、そっと手に取った。
画面の中を見ると、井戸女が井戸の縁に座っていた。
メモ帳を抱えたまま、うつむいている。あと少しだった。本当に、あと少しで外に出られた。
「……惜しかったね」
声をかけても、井戸女は動かない。フードの陰の顔は見えないけど、全身からしょんぼりとした雰囲気を醸し出している。
「ねえ」
私は、画面に顔を近づけた。
「今度さ、お母さんがいない日にもう一回試そうか」
うつむいていた顔が、ゆっくり上がった。前髪の隙間から、こっちを見ている。
「クレープ屋も、美容院も、逃げないしさ」
井戸女が、メモ帳をぎゅっと抱え直した。
「だから、次。次こそ出よう」
私はスマホを持って、キッチンの方へ歩き出した。
「お母さん、今日の晩ごはん何ー?」
画面の隅で、井戸女が、井戸の縁から、ひょいと立ち上がったのが見えた。




