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第2話:椿の反発と、小刀の目覚め

工房の土間に落ちる西日が、じりじりと長く伸びて赤みを増していく。


海から吹き込む風が、昼間のべたつくような湿り気を失い、少しだけひんやりとした夜の匂いを孕み始めた頃、母屋から夕飯の支度をする音が聞こえてきた。


トントン、というリズミカルな包丁の音に混じって、醤油と砂糖、それにみりんが焦げるような、甘辛い匂いが漂ってくる。

 今日はどうやら、近所からのお裾分けの魚を煮付けているらしい。


「航ー、キリのええとこで手ぇ止めて、ご飯にしなさいよ。カレイがふっくら炊けたけんね」


網戸越しに響く母・春子の声に、航は大きく息を吐き出して小刀を置いた。

 丸みを帯びつつあるオリーブの木片から視線を外すと、途端に首や肩にのしかかっていた疲労感がどっと押し寄せてくる。

 こわばった指先をゆっくりと開き、首の骨を鳴らしながら立ち上がった。


居間に戻ると、古びたちゃぶ台にはカレイの煮付けと、島で採れたオクラのお浸し、それに冷奴が並んでいた。

 部屋の隅にある小さな仏壇には、炊きたてのつややかなご飯と、真新しい線香が供えられている。


チーン、と澄んだ音を立てておりんを鳴らし、航は手を合わせた。


遺影の中で少しだけはにかむように笑っているのは、航の父だ。


祖父の跡を継いで、この島の漁師として海に出ていた父は、航がまだ五歳の時に肺がんでこの世を去った。

 若すぎる死だった。

 十九歳になった今の航には、父と交わした言葉の記憶はほとんど残っていない。

 ただ、日に焼けてゴツゴツとした大きな手のひらの感触と、抱き上げられた時に香る、潮と『セブンスター』の煙草が混ざったような独特の匂いだけが、波音と共に脳裏の奥底にこびりついている。


「ほら、冷めんうちに食べなさい」


「ん、いただきます」


母が取り分けてくれたカレイの身は、箸を入れるとほろりと崩れた。

 甘辛い煮汁が染み込んでいて、白いご飯がいくらでも進む。

 向かいに座る母は、自分の小鉢に箸を伸ばしながら、ふと小さく咳き込んだ。


「……ん、んん」


「大丈夫か? 今朝も咳しとったけど」


「あー、ちょっと煮汁が喉の奥に変な入り方しただけよ。歳のせいで飲み込むんが下手になっとるんよねえ」


母は目尻にシワを寄せてカラカラと笑うと、お茶を一口飲んで誤魔化した。

 航も、それ以上は深く気に留めず、再び箸を動かした。


父が亡くなった後、残された航の家を支えたのは祖父だった。


祖父は航をよく港へ連れて行き、漁の手伝いをさせようとした。

 しかし、船の揺れと荒々しい波の恐怖は、幼い航の体にどうしても馴染まなかった。

 海へ出るたびに青ざめて船底にうずくまる孫を見て、祖父は無理に海へ連れ出すことをやめた。


その代わり、航は(おか)での祖父の姿に強く惹きつけられるようになった。


漁に出ない日の祖父は、土間に座り込み、一日中何かの作業をしていた。

 破れた網を、太い指先で魔法のように素早く繕っていく手つき。

 裏の畑で干した藁を綯なって、器用に草履を編み上げる背中。

 中でも航が一番好きだったのは、祖父が流木や裏山の木切れを拾ってきては、小刀一本で滑らかな箸や、いびつだが手によく馴染む器を削り出す時間だった。


『木にはな、表と裏がある。機嫌のええ日と悪い日もある。それを小刀で聞いてやるんや』


口数の少ない祖父が時折こぼすその言葉の意味は、幼い航にはよくわからなかった。

 だが、航はいつも祖父の隣にちょこんと座り、見よう見まねで木切れを削った。

 指を切って泣きべそをかいても、翌日にはまた祖父の隣で小刀を握っていた。

 それが、航の「てしごと」の原点だった。


その祖父も、航が十六歳の時に、まるで眠るように静かに息を引き取った。


葬儀の席で、親戚や近所の大人たちは酒を飲みながら「これでこの家の漁師も途絶えるな」「航はまだ子供やし、春子さんも大変やねえ」と、無責任な噂話をヒソヒソと交わしていた。

 航は悔しさと申し訳なさで、ただ俯くことしかできなかった。


しかし、葬儀が終わった夜、疲れ果てて座り込む航の背中を、母は力強く叩いてこう言ったのだ。


『航は、航のしたいように生きなさい。海に出るのも立派やけど、あんたの手は、お爺ちゃんみたいに何かを作り出す手ぇしとる。お母さんは、航が自分の好きなことを見つけて、自分の足で生きてくれたら、それでええんよ』


決して裕福ではない。

 むしろ、明日の生活費にも頭を悩ませるような暮らしの中で、母は航に一度も「跡継ぎ」という鎖をかけなかった。

 その底なしのおおらかさと深い愛情が、航にとってどれほど救いだったか。

 だからこそ航は、この島と母を置いて都会へ出たいと願う自分自身を、ひどく薄情な人間に思えて、強い罪悪感を抱え続けているのだった。


翌朝。


フェリーの始発の汽笛を聞き流し、航は土間に座り込んでいた。


今日、手の中にあるのはオリーブではない。

 島の裏山に自生している「椿」の木だ。

 オリーブよりもはるかに目が詰まっていて硬く、少しでも刃の角度を誤れば、弾き返されてしまうような強烈な反発力を持っている。


航は昨日から、この椿の木で小さな菓子切りを作ろうと格闘していた。

 しかし、どうしても納得のいく曲線が出ない。


(……くそっ、なんでこんなに硬いんだ)


昨日SNSで見た、東京の洗練された光景が頭をよぎる。

 あの均整の取れた美しいステンレスのカトラリー。

 それに比べて、自分の手の中にある木は、どうしてこうも不揃いで、言うことを聞かないのか。

 焦りが小刀を持つ手に力を込めさせる。

 力任せに木を削ぎ落とそうとした瞬間、刃が木の節に深く食い込み、「バキッ」という嫌な音とともに、木材の表面が醜くささくれ立ってしまった。


航は舌打ちをして、ささくれた椿の木を土間に放り投げた。


「……違う」


荒い呼吸を整えながら、航は自分の両手を見つめた。


力で押さえつけようとするから、木は反発するのだ。

 自分の思い通りの形を無理やり押し付けようとする行為は、東京の工場で機械が大量生産する工業製品と同じだ。


航は深呼吸をし、放り投げた椿の木をもう一度拾い上げた。

 そして、ささくれ立った断面にそっと親指の腹を当てる。


祖父の言葉が蘇る。『木にはな、表と裏がある。それを小刀で聞いてやるんや』


この椿の木は、何十年もこの島の強い海風に耐え、捻れながら育ってきたのだ。

 その歴史が、この複雑な木目を作り出している。

 航は刃の角度を変え、逆撫でしていた木の繊維に沿うように、木目の流れを読み取った。

 自分の理想の形を彫るのではなく、木の中にすでに眠っている形を、小刀を使って「掘り起こしてやる」ような感覚。


呼吸を整え、ゆっくりと、木が刃を受け入れる方向へと滑らせる。


シュルリ。


今までとは全く違う、透き通るように薄く、長い木屑が宙を舞った。

 何の抵抗もなく、刃が椿の硬い内部へと吸い込まれていく。

 その瞬間、航は背筋に電流が走るような感覚を覚えた。


ただ無心に削ることで、都会への未練や日々の鬱屈をごまかしていた航が、初めて手仕事の持つ「底知れぬ深淵」の入り口に立った瞬間だった。

 自然の造形に対する畏怖と、それを己の手で引き出すことの歓喜。

 それは、画面越しの東京の輝きすら一瞬忘れさせるほど、圧倒的で、純粋な熱だった。


「ほーら、やっぱりこんなとこまで木屑飛ばして。また掃除が大変になるやん」


不意に背後から声がして、航はハッと我に返った。


振り返ると、土間の入り口に結衣が呆れたような顔をして立っている。

 彼女の手には、使い込まれたプラスチックのタッパーが握られていた。


「おばちゃん、今日も朝から漁協のパートやろ。お昼ご飯、これ食べな。うちのお母さんが作った、五目の三角いなり」


「悪い、結衣。いつも」


「いいの。航は昔から、一度集中すると周りが見えなくなるんやけん。ほら、そこどいて。私が掃くから」


結衣はタッパーを上がり框に置くと、土間の隅に立てかけてあった竹箒を手に取り、手際よく木屑を集め始めた。

 サラサラ、という竹の穂先が土を擦る音が、工房に心地よく響く。


結衣は航と同い年だが、昔からこうして航の世話を焼くのが当たり前になっていて、時折どちらが年上なのかわからなくなる。

 幼い頃、航が祖父の隣で木を削って指を切り、泣きべそをかいた時、真っ先に自分の家から絆創膏を持って走ってきたのも結衣だった。

 彼女はきっと、これからもずっと変わらない。

 この竹箒の音のように、穏やかで優しいリズムで、この島で生きていくのだろう。


「……結衣」


「ん?」


「ありがとうな」


「なに急に、気持ち悪いなあ。いなり寿司、お腹空いとるやろ。はよ食べな」


結衣は屈託なく笑うと、集めた木屑をちりとりへと掃き入れた。


航は結衣の背中を見つめながら、手の中の椿の木をそっと撫でた。

 先ほど感じた、木と対話するようなあの不思議な感覚の余韻と、小刀の柄の熱が、指先にまだ確かな重みとして残っている。


この新しい感覚を、形にしたい。誰かのために。


その純粋な衝動が、のちに航の運命を大きく狂わせる「あるもの」を生み出す引き金となろうとしていた。

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