第1話:オリーブの木と潮風
令和という新しい時代が始まって、もう数年が経つ。
街角のポスターも、役所の書類も、テレビのテロップも、すっかり新しい元号の響きに馴染んでしまったというのに、四国と本州の間に浮かぶこの小さな島には、いまだ昭和の空気が真空パックされたように漂っていた。
錆びついたトタン屋根、潮風に晒されて白茶けた板壁、迷路のように入り組んだ細い路地。
どこを切り取っても、時計の針が四十年前で止まってしまったかのような錯覚を覚える。
朝七時。
「ボーーーッ」という、腹の底を揺らすような低いフェリーの長声で、高木航は目を覚ました。
一日三便しかない、本土とこの島を繋ぐ唯一の生命線。
網戸越しに入ってくる生温かい風は、今日もべたつくような潮の匂いと、微かな磯の香りを部屋の隅々にまで運んでくる。
薄い夏掛けを蹴飛ばし、寝転がったまま見上げた天井には、雨漏りの染みが島の地図のような形を作っていた。
十九歳。
世間一般では大学生になり、サークルだのコンパだのと浮かれている年齢だが、航の朝はいつもこの染みを見つめることから始まる。
「航、朝ごはんできとるよ。早よ食べな、味噌汁冷めるけんね」
一階から、トタン屋根を震わせるような母・春子の元気な声が響いた。
軋む階段を降りると、居間の真ん中にある小さなちゃぶ台に、アジの干物、わかめの味噌汁、そして山盛りの白飯が並んでいる。
台所に立つ母の背中は、記憶の中よりもほんの少しだけ丸くなったような気がしたが、女手一つで航を育て上げたその腕は、島の日差しに焼けて浅黒く、たくましい。
「今日、公民館のおばちゃんらからスプーンの注文が入っとるけん。無理せん程度に頼むよ」
「ん……わかってる」
寝癖をかきむしりながら、航は席に着き、味噌汁をすする。
いりこ出汁の効いた、いつもと変わらない、少し濃いめの味。
舌の奥にじんわりと広がるこの安心感が、時々ひどく退屈なものに思えてしまう自分を、航は密かに恥じていた。
ブラウン管の名残があるような分厚いテレビからは、朝のワイドショーが流れている。
画面の向こうでは、東京・表参道に新しくオープンしたというガラス張りのカフェが特集され、きらびやかなスイーツが映し出されていた。
ふと、母がコンロの前で小さく咳き込んだ。
「……風邪?」
「ん? ああ、違う違う。ちょっとお醤油の匂いでむせただけよ。それより航、あんたまた夜中まで起きとったやろ。目の下、クマになっとるよ」
母は誤魔化すように笑うと、手際よく自分の分の干物をほぐし始めた。
航はそれ以上追及せず、テレビの画面へと視線を戻した。
画面の中の東京は、何から何までが洗練されていて、無駄がない。
そこにあるのは、この島のような泥臭い「手作業」ではなく、スマートで高速な「消費」の世界だ。
いつか自分も、あの光の中へ行けるのだろうか。
いや、行かなければならない。
根拠のない焦燥感が、朝の味噌汁の味を少しだけ苦くした。
朝食を終えると、航は母屋の隣にある薄暗い作業場へ向かう。
かつては漁師だった祖父が、網の修繕や道具の手入れに使っていたという土間。
今はそこが、十九歳の航の「工房」だった。
土間には、切り出されたばかりのオリーブの木や、海から拾ってきた流木が数本、無造作に転がっている。
むせ返るような木の香りと、土の匂い。
航はその中から手頃な太さのオリーブの枝を一つ拾い上げ、指先で表面のざらつきを確かめた。
オリーブは硬い。そして気まぐれだ。
木の皮の下に眠る木目を想像し、何を作るべきか、木と対話する。
この時間だけは、島に流れる時間よりもさらにゆっくりと進むような気がした。
ふう、と一つ息を吐き、使い込まれた小刀を握る。
シュッ……。
静寂の中、小気味よい音が響く。
シュッ、シュッ。
刃が木肌を滑るたび、薄い木屑がくるりと丸まって土間に落ちていく。
硬いオリーブの木が、航の分厚くマメだらけの指先を通して、少しずつ滑らかな曲線を帯びていく。
それは、島の人々が日常で使うスプーンや小さな器に変わる「てしごと」だった。
航の手は、とても十九歳の若者のそれではない。
節くれ立ち、いくつもの刃物の傷跡があり、指先は常に木の渋で茶色く染まっている。
東京の同世代が、キーボードやスマートフォンを滑らかに叩いているその瞬間に、自分はひたすら木を削っている。
その事実に、時折どうしようもない孤独を感じることがあった。
完璧な左右対称を目指して小刀を入れるが、ふいに木の節にぶつかり、刃が弾かれる。
(……くそっ)
工業製品のような、狂いのない完璧な美しさ。
それが東京の求めるものだとしたら、自分はどうやってもそこには辿り着けないのではないか。
自然という不規則なものを相手にしている以上、必ず「歪み」が生まれる。
その歪みを愛してくれるのは、結局のところ、この島のおばちゃんたちのような、限られた身内の人間だけなのではないか。
「航、また休憩もせんとやっとるん?」
入り口の引き戸がガラリと開き、強い西日とともに幼なじみの結衣が顔を出した。
時刻はすでに午後三時を回っていた。
集中すると、いつも時間の感覚が消え失せてしまう。
結衣の手には、彼女の実家が営む商店で缶がへこみ、売り物にならなくなった微糖の缶コーヒーが二つ握られていた。
日焼けした頬と、結んだ髪の毛先が、潮風に揺れている。
「……ん。キリのいいところまでやりたくて」
「無理したらあかんよ。航の作るスプーン、公民館のおばちゃんらにも評判ええんやけん。あんまり根詰めて手ぇ痛めたら、みんな悲しむやろ」
結衣は土間の上がり框に腰を下ろし、プルタブをパキリと開けた。
屈託のない、太陽のような笑顔。
島の誰もが知り合いで、誰もが家族のように干渉し合う。
玄関の鍵なんて誰もかけないし、夕飯のおかずを作りすぎれば隣の家に持っていく。
この息苦しくも温かい世界を、結衣は心から愛していた。
航も小刀を置いてコーヒーを受け取る。
微糖のはずなのに、疲れた身体にはひどく甘く感じた。
「そういえばさ、本土のほうで新しいカフェができたらしいんよ。今度、フェリー乗って一緒に行ってみん? なんか、すっごくおしゃれなパンケーキがあるんやって」
「カフェね……」
生返事をしながら、航は作業着のポケットから何気なくスマートフォンを取り出した。
画面のロックを解除し、SNSのアイコンをタップする。
途端に、小さな四角い画面の中に、圧倒的な光の渦が溢れ出した。
高校卒業と同時に東京へ出た同級生たちの、眩しすぎる日常。
スクランブル交差点の人の波、空を突き刺すような高層ビル群、深夜までネオンが瞬く街並み。
彼らは皆、何者かになろうと必死に都会のスピードにしがみつき、そして確実に洗練されていっていた。
スクロールする指が止まる。
ある同級生の投稿。
そこには、ガラス張りのテーブルに置かれた、無機質で洗練されたステンレスのカトラリーが写っていた。
『都会の夜、最高のディナー』という気の利いたキャプションと共に。
画面越しに伝わる「圧倒的な違い」に、航は静かに息を呑んだ。
ふと、自分の手元を見る。
マメだらけの指、木屑まみれの作業着、そして、錆びかけたトタン屋根の土間。
足元には、歪みのある不恰好なオリーブのスプーン。
(俺は、一生この島で、これを削って終わるのか?)
結衣は隣で、カフェのパンケーキの写真を見せて無邪気に笑っている。
彼女はきっと、一生この島を出ることはない。
この優しくて、変化のない箱庭の中で、誰かと結婚し、歳をとっていくのだろう。
もし俺がこの島を出たら、この屈託のない笑顔は、二度と俺に向けられることはなくなるのだろうか。
一瞬、そんなことが胸をよぎったが、それ以上に、焦燥感にも似た黒い感情が、胸の奥でじわりと滲むのが早かった。
航はそれを結衣に悟られないよう、慌ててスマホを裏返し、残りのコーヒーを一気に喉に流し込んだ。
「……ごめん結衣、もう少し削りたいから」
逃げるように再び小刀を握り直す。
都会への強烈な憧れと、島を捨てきれない自分への苛立ち。
そして、自分だけが先へ進もうとしていることへの罪悪感。
「気をつけなよ、刃物なんやけん」という結衣の心配そうな声を背に受けながら、航は刃を立てた。
手元が狂い、チクリと指先に痛みが走る。
見ると、オリーブの木肌に、微かに赤い血が滲んでいた。
痛い、というよりは、熱かった。
それをすべて木屑と一緒に削り落とそうとするかのように、航は血を舐めとり、来る日も来る日も、ただひたすらに「てしごと」に没頭するのだった。
それは祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
だが、この閉ざされた島で燻る青い熱が、やがて予想もしない形で外の世界へと引火していくことを、この時の航はまだ知る由もなかった。




