エピローグ/一
錦景市の金曜日の放課後。
すでに太陽の姿は見上げた濃いオレンジ色の空を探しても見えず遠く地平線に溶けるように土曜日に消えようとしていた。
そのとき、國丸ユウリの装いはセーラ服だった。錦景女子高校の制服でもなく、アニメのコスロテでもなく、錦景市立春日中学校の制服が新たになったというわけでもなかった。ユウリは第五中学校のセーラ服に袖を通していた。芳槻アオのセーラ服だった。アオの匂いがした。ユウリは五中のセーラ服に身を包み、五中の理科室の窓際の席に座り、頬杖付きアンニュイな表情で、遠くで強く輝くあらゆるものの全ての源である天体を眺めていた。
天体史的唯物論者としてね。
黄昏ているんだよ。
センチメンタルに浸っているの。
こういう瞬間って嫌いじゃないのよね。
傍にはアオが立っている。「忍び込むのは簡単だった?」
「正門から堂々と入って来たけど特に何にも問題なかったよ、この制服着てるんだから先生たちだって分からないよ」ユウリはセーラーカラーの端っこを摘まんで持ち上げてすぐに離した。
「ユウリ、可愛いから、」アオはユウリの頭を撫でて笑顔で言う。「目立っちゃうかもって心配だった」
「だから、ほら、」ユウリは首振った。「今日のアオちゃんと同じ、三つ編みにしてきたんだよ」
「意味ないよ、だってユウリは、」アオはユウリの二つのおさげを触り弄ぶ。「どんな風に変貌したって、可愛いんだから」
金曜日の放課後、ユウリがアオとここにいるのは、アオの夢を叶えるためだった。
この理科室で二人の血液を採取して、細い試験官の中で混ぜる。
それってまるで、太古神聖な時代、幻想が描いた霊獣を召喚する儀式のようで。
素晴らしいね。
なんて。
ユウリはそんな風に思えない。
なんて変な夢。
凄く奇妙だ。
狂ってる。
私も狂っている少女かもしれないけれどあなたもとっても狂っている少女よ。
そう思ったから、金曜日にこの場所に来ることを約束した時にユウリは、素直にアオにそう言った。「なんて変な夢を見るの」
アオは「そうね」と頷き笑って「まだユウリに話していないことがあるの」と、この理科室での思い出を話してくれた。ユウリが知らない、矢野アキナという理科教師とアオの思い出話。
それを聞いてユウリは酷く、アキナとアオの人間関係に嫉妬したし裏切られたような気がして動揺した。だからそれはつまり同時に、ユウリはアオのことをやっぱり愛しているんだと再確認出来た、ということになるのだろう。アオのことを愛していなくっちゃ嫉妬なんてしない。裏切られたなんて思わない。動揺なんて出来るわけがないんだ。
それから、アオとアキナの思い出話を聞いてユウリは、アオの色が少しはハッキリと見えたような気がしたんだ。モノクロに着色された。そういう気がしたんだ。酷い胸騒ぎの心で、冷静にね。
「軽蔑しないでね」思い出話を終えて最後に、まるで解き放たれたという晴れ晴れとした顔でアオは言った。
「何に?」
「私と、先生に」
「軽蔑なんてしない、出来ないよ」
理科室には異様なムードが漂っていた。
アオが理科室の机の上に、あの硬い材質で出来ている黒いポーチのファスナを開けて広げてから瞬間、空気が張り詰めたものへと変わったような気がした。ポーチの中身の、試験官と消毒液と絆創膏と注射器を見て、アオの夢を叶える道具のセットを見て、ユウリは一気に緊張に襲われた。
アオは自分の体の前にガスバーナを引き寄せ捻って、マッチを擦り、点火した。
紅い炎が膨らみ妖艶に踊った。
紅い踊り子を捻り殺すようにアオは無慈悲にガスバーナを操作する。
紅い踊り子は最後、破裂したように大きくなって散って青く透明な炎に転生した。
「さあ、ユウリ、」アオはコットンに消毒液を染み込ませていた。「手を出して」
ユウリは袖を捲って手の平を上にしてアオに腕の内側を向けた。
肘の裏の青く浮き上がっている太い血管の上を、アオは消毒液の染み込んだコットンで擦った。
消毒液が冷たかった。
ゾクッと背筋が震えた。
アオは注射器を手にする。
針の先端を青く透明な炎に翳して消毒する。
針の先端がユウリの肘の裏の血管に接近する。
アオも緊張しているのだろう。
注射器を持つ手は震えていた。
まるでお医者さんごっこね、なんて下らない冗談は言えなかった。
味わったことのない異様なムードなんだって。
笑えない。
「行くよ」
ユウリは目をギュッと瞑った。
瞬間。
細く鋭い、小さな痛みが肘の裏のどこかに走ったのを感じた。
「はい、もう終わり」
ゆっくり目を開けた。
アオの右手の注射器の中には紅い液体があった。
これが私の血なんだ、とユウリは採血した箇所をコットンで再び消毒しながら自分の血を見た。思ったよりも綺麗な色をしていると思った。
「さあ、ユウリ、」何かを成し遂げた、という感情を顔に見せてアオは興奮気味に言う。「今度はユウリが私の血を採る番だよ」
ユウリは声を出さずに頷き、アオが差し出す右腕の肘の裏を、アオがユウリにそうしたみたいに、消毒液を染み込ませたコットンで消毒した。そしてポーチの上に用意された注射器を手にする。アオがユウリにそうしたみたいに、青い炎に針を翳し殺菌し、その先端をアオの肘の裏の青く浮き上がった血管に近づけた。
白くて細くて綺麗な腕。
「いつでもいいからね、」ゲームが始まる前みたいな調子で、アオは笑顔で言った。「ユウリのタイミングで構わないから」
白くて細くて綺麗な腕。
それを目の当りにしたら、ユウリはかけがえのない腕なんだと思ってしまっていくら小さな傷でもつけてはいけないような気がした。自分は今からとても残酷なことをしようとしているんじゃないか。地獄に堕ちるほどの悪行なのではないか。
細い針でも突き刺せば瞬く間に細い穴から血が溢れこの白い腕は血に染まって汚くなってしまうのではないか。自分の刹那的な想像に震えた。
ユウリは震える注射器を持った手を必死にコントロールしようとした。
しかしアオの白い腕を見れば見るほど、血管に正確な狙いをつけようとすればするほど、制御出来なくなった。
ユウリの目に汗が沁みた。
額に沢山の汗を搔いていることに気付く。
注射器を一度、血管から遠ざけた。
ユウリは大きく息を漏らした。
そして呼吸を繰り返す。ダッシュもしていないのに息が切れている。
無理だと思った。
「……やっぱり無理だよ」
事前にアオに、こういうことをするって聞いていたから腹を括っていたつもりなんだけれど、いざ直面してみると絶対に無理だと分かった。「ごめん、やっぱり、私には出来ないよ、注射なんて、こんなことやったことないし、間違ったら大変なことになるんじゃないかって思うと怖くて出来ないよ、無理だよ」
「……うん、分かったわ」
アオは笑顔でそう言ってくれたけれど凄く、残念そうだった。夢に連なる儀式が中途半端になるのを残念がっているんだと思う。その気持ちは分かるよ。残念だけど、出来るだけご期待に応えたいとは思うけどでも、無理なものは無理なんだ。
「ごめんね」
「ううん、自分でやるから大丈夫よ」
そしてアオはユウリから注射器を受け取りほとんど躊躇いなく自分の血管に針を刺して「引いて」と言った。「ユウリ、引いて」
「え?」
「引っ張って、」アオは愉快そうに笑っている。「ピストンを引くのはさすがに一人じゃ無理よ」
「ああ、うん」
ユウリは言われ、ゆっくりとピストンに触れ、出来るだけ優しく慎重にそれを引っ張った。
ユウリは自分の手の動きに連動してアオの綺麗な血液が注射器の中に流れ込んでくるのを見て。
泣きそうだった。
ユウリは虚勢を張っていられなかった。
そんな余裕はなかった。
注射器に血が一杯になったのを確認してアオはやっぱり躊躇いなく自分の腕から針を抜いた。アオはあっけらかんとした表情で注射器の中の自分の血をまじまじと観察していた。とても楽しそうだった。目の前の少女はどうしてこんな風に楽しそうに笑えるんだろう。羨ましくはない。腹が立つ。理解出来ないからだ。アオのことが理解出来ない。アキナはアオのことを理解していたのだろうか。それとも持て余していたのだろうか。いいや、過去の女と比べることって無意味だ。ユウリはアオを持て余したくはない。きちんと理解したい。支配したい。
「これって何色っていうんだろうね」
知らないよ、そんな色。
駄目だ。
すぐに反発してしまう。
アオのことを支配出来ないから、ヒステリックになるんだ。
熱くなってしまうんだ。
「さあ、混ぜましょう」
アオは自分の血液が入った注射器をユウリに手渡す。
アオはユウリの血液が入った注射器を右手に持ち、試験官を左手に持った。
二人は同時に注射針を試験官の中に入れた。
片方の針だけ震えていた。
針がぶつかりアオは「んふふっ」と歓喜を体の中で留めておくことなんて出来ないという風に高い声で笑った。
ユウリは喉を鳴らした。口の中はカラカラに渇いていた。
「せーの」
アオの合図で二人はピストンを押し血液を試験官に注ぎ入れた。
なんだ、コレは?
そう思わずにはいられなかった。
二人の血液は合わせて試験官の半分くらいの量になった。
アオは顔の前で試験官を軽く揺らして二人の血液を混ぜ合わせた。
血液の色に違いなんてない。よく混ざったなんて分からない。その混ぜるという行為に意味はないと思う。
しかしアオはそこに何か意味を見出したように血液を見て、ぞっとするほど悦楽的な笑顔を見せた。この意味不明な光景にそれを感じているんだ。理解不能意味不明だよ。信じられないよ。
そして二人は試験官を間に挟んで、アオの小さなデジタルカメラで記念撮影をした。
デジタルカメラの背中の画面で撮影したばかりの写真を確認すれば、二人とも自然な笑顔だった。
アオの笑顔はユウリが見た中で史上最高に愛らしく、ユウリの笑顔も、私ってこんな風に笑えるんだ、産まれて初めて気付いた、と思えたほど優しかった。
最高の写真だった。
写真の真ん中に、混ざった二人の血液が入った試験官がなければ、普通に、普通にとっても仲がいい少女たちの普通の、思い出としてアルバムに仕舞うに相応しい最高の写真だ。
普通を破壊しているもの。
それは血だ。
中心に血があるから変なんだ。
笑えないくらい変で、この奇妙さ加減をユウリはやっぱり……。
「いい写真ね、凄く素敵、これって芸術だよ、前衛芸術ってやつだよ」なんて用意していた台詞をアオのデジタルカメラに向かって言うことは出来たんだけれどやっぱり。
この写真を受け止めることは出来なかった。
ユウリの目からは涙が溢れていた。
自分でもびっくりするくらい唐突に溢れ出て来て止まらない。
「ユウリ?」アオはユウリの顔を覗き込む。「大丈夫、ユウリ?」
「あれ? あれ? あれ? おかしいな?」ユウリは目元を擦りながら、全てを笑い飛ばしたくて、精一杯の虚勢を張って、声を出し続けた。「どうしちゃったのかな? ああ、きっと、嬉しくって、アオちゃんの夢が叶えられたから、きっと、嬉しくって、私、私は……、ああ……、ああ……もう、嫌だ……」
ユウリの声が消えていく。声を必死で押し殺して涙を流した。感情が燃え上がって勢いよく渦巻いて顔の筋肉の制御が出来なくなる。声も抑えてはいられなくなって泣き声になって飛び出し炸裂して、そして連鎖的に今までアオに対して抱いていた、愛情、嫉妬、反感、憎悪、悲哀、希望、絶望、欲望、恐怖とかの形が次々に誘爆して涙に変わっていく感じに襲われた。
アオは泣きじゃくるユウリを抱き締めていた。
ユウリの爆発する心はアオを拒絶する。ユウリはアオの両肩を押して、アオから離れ叫んだ。「やめてよ、もう!」
そしてユウリはまるで気の利いたインテリアのように机の上で什器によって起立していた二人の血液が入った試験官を手にして深緑色をしたひび割れた床に思いっきり叩きつけた。
ガラスが砕けて欠片になり飛び散った。
そういう音が鋭く耳を引っ掻いた。
破片には色が付いていてそれはもちろん血の紅だ。
まるでガラスの凶器で行われた一つの殺人がここで繰り広げられたような、ユウリの足元だった。
血が弾けている。
「……私、アオちゃんのことが怖い、」ユウリは血が弾けた足元を見ながら言った。「怖いのよ、凄く怖いの」
「……私が怖いっていうの、分かるよ、」アオの声は冷静なままだった。ユウリのヒステリックを反射せずに呑み込み、アオの色に変化はなかった。アオは椅子に座り頬杖を付き、その綺麗に整った顔を斜めに傾けてユウリを見据える。「私だって私自身が怖いのよ、いつか衝動的に取り返しがつかないことをするんじゃないかって、そう、私だって、怖がっていないわけじゃないの、だからユウリが私のことを怖がるのは当然だと思う、でもやっぱり、悲しいな」
アオはニュートラルな表情のまま、涙を頬に伝わせた。その涙の粒は床に弾けた血に堕ちて混ざって溶けた。
「ごめんね」ユウリは鼻をすすって言った。
「ううん、平気よ、」アオは首を小さく横に振り、そして視線を窓の方に逸らしポツリと言った。「しばらく会わない方がいいのかもしれないね」
「……うん、」ユウリはいいえ、と首を横に触れなかった。「そうかもしれない」
「また会えるよね」
「うん」
「私はずっと、ユウリに会いたいから、多分この気持ちは永遠に変わることがないって思うくらい強いものよ」
「うん、同じだよ」
「二人とも錦景女子に合格すればまた、会えるよね」
「うん、それまでに私、アオちゃんを受け止められるくらい、強くなるから、だから今は待って、私があなたの全てを受け止めても大丈夫になるまで待って、」ユウリは目を瞑って顔の前で五指を組んだ。「お願いよ」
途端。
「んふふっ」
アオの笑い声が理科室に響いた。
ユウリは未来が不安だった。
ファンタシィ・フェイダ・ウェイが聞きたくなった。
ハイブリッド・ブラン・ブルーは、もういい。
あなたのことはもう、しばらく考えたくないの。
「私も強くなるわ、私も誓うわ、私の中に龍がいるとしたらその龍を、支配出来るように強く」
それも嘘?
何もかもウソ?




