ファンタシィ・フェイダ・ウェイ/十九
錦景市は夜の七時。
ユウリは華の公園のベンチに座りアオが来るのを待っている。待ち合わせにユウリは華の公園を選んだ。公園にはユウリしかいない。住宅街の少ない明かりに薄まった暗闇と少ないノイズが混じった不完全な寂寞が公園には積っていた。
松葉杖がないのでユウリは、愉快なタクシー・ドライバに電話を掛けてここまで乗せてもらった。「帰りも呼びますね」そう言ったら「待ってるよ」と彼女は言って煙草に火を点けた。「今日はもう、とっくにノルマは稼いだから、待ってるよ」
だから公園の敷地を囲む細い路地のどこかに彼女はタクシーを停めていて待ってくれている。彼女にユウリは、これから喧嘩した友達と仲直りするんです、と告げた。
「そうなんだ、だったら帰りは二人とも乗せていかなくっちゃね」
そうだといいんですけど。
「大丈夫だよ、君なら」
頑張ります。
でも未来のことなんて何も見えないから不安です。
「へくちっ」ユウリはくしゃみをした。
鼻をすすって、腕をさすった。
十月に入って夜の七時の時間帯の空気は少しひんやりとして来たようだ。夏は遠くなり秋になり季節は冬を確実に誘っている。外灯のぼんやりとした明かりが照らす公園で一番背が高い木の葉っぱの緑の色素は薄まっている。公園の中心に献華された華々もどことなく空気の冷たさに弱っているように見えた。そう見えるのはユウリの心が弱っている、ということだろうか。以前、ユウリの師匠である武尊アマキは言った。「華は真実を見せるよ」
それを聞いたときは彼女が発する言葉の意味が全く分からなくて「そうですね」と適当に頷いただけなんだけれど、今ならなんとなくおぼろげに分かるような気がする。
華は真実を見せる。
そうかもしれませんね。
ユウリはアオと会う前に、アマキに会っておきたかった。アオと会うのは決戦だと思ったから、決戦の前には師匠に会って、決意のようなものを固めておきたかったのだ。でもアマキはいなかった。でもアマキはユウリに教えてくれた。華は真実を見せる。
今日の献華にはアオが多いと思った。
小さく足音が聞こえた。
華の向こう。
セーラ服姿のアオが華の公園に姿を見せた。学校指定の鞄を肩に掛けていた。アオは遠くからベンチに座るユウリを見て笑顔を作った。そして入り口からユウリのところまで、アオい献華を迂回して、駆け足でやってくる。
アオはユウリの正面に立ち止まり、そして前髪を直し、唇を舐めて首を竦めて、笑顔を作り直して明るい口調で言った。「こんばんは」
「こんばんは、」鏡じゃないんだけど、ユウリも気付いたら前髪を直し、唇を舐めて首を竦めて、笑顔を作り直して明るい口調で言っていた。「えっと、こんばんは」
「待った?」
「ううん、今さっき、来たばかり」
「そう」
「うん」
「久しぶりね」
「うん、久しぶり」
「隣、座っていい?」
「うん、」ユウリは腰を浮かせて右に移動した。「どうぞ」
「ありがとう、」アオは凄く笑顔でユウリの隣に座り鞄を脇に置いた。「なんだか、今日のユウリ、格好いいね」
「そうかな、」ユウリは髪を後ろで一つに束ね、紅色のツーラインが素敵な紺のロンズデールのジャージに、ロンズデールの黒いスウェットに、アディダスのランニングシューズという機動性の高い恰好だった。つまりいつでも、ランナウェイ出来る装いを選んだのだ。「別に普通だよ」
「ジャージ姿のユウリを私は見たことなかったから、だから新鮮」
「そうだっけ?」言ってユウリは自分の太ももの上に肘を置き手の平に顎を乗せてアオの笑顔を眺めた。
少しお化粧をしているみたい。綺麗だった。
「突然、」アオは見つめられて照れた風に顔を綻ばせてから俯き加減で言った。「今日は、どうしたの?」
「んー、なんか、急に会いたくなって」
「そっか、」アオは顔を上げ、献華のある方、正面の虚空を見据えて言う。「私はずっと、会いたかったんだけどな、ユウリに、ユウリはそうじゃなかったんだね」
「そんなことないよ、」ユウリは小さく首を横に振った。「アオちゃんのこと、毎日考えてた」
「私もだよ」
「二人とも、お互いのことを思ってたんだね」
「思ってたんだよ、」アオは忙しなく手を擦り合わせていた。「ユウリのことしか、思ってなかった」
「……ねぇ、アオちゃん、どうして家に来てくれなくなったの?」
「どうしてって、それは、ユウリが、私のこと嫌いになったんだと思ったから、怒ってたから、連絡もくれないから、だからもう、ユウリとは終わったんだって、思ってて」
「簡単に終わらせないで」
「だって凄く怒ってたから、そう思うよ、嫌だったけど、嫌だったよ、でもしょうがないかなって」
「私と仲直りしようとか、思わなかった?」
「思ってたわ、毎日、でもだって凄く怒ってたから、何も出来なかったの、仲直りする方法を私はずっと考えてて、苦しくって、連絡してもしユウリに拒絶されでもしたらそれこそ辛いって思って、」アオの横顔の唇は震えながら言葉を出していた。「……そうなの、ユウリがいない生活に私は耐えられそうになかったから、だから、……完全にあなたに拒絶されていない状態を維持して少しでもあなたと繋がっていたいって、あなたのことを思い続けていたかったから、だから、」アオは一瞬、横目でユウリのことを鋭く見た。「……だから何も出来なかったの」
震える可憐な少女が隣にいて、ユウリは今すぐにでも強い力で抱き締めてあげたいと思った。アオへの疑いなんてなかったことにして、何もかも一切合財なかったことにして、ごめんねと優しく謝り、簡単に仲直りしてしまいたい衝動に駆られた。
アオもユウリが強く抱き締めるのを待っているような気がした。
こちらを見ず、まっすぐ正面を見て、アオく立ち昇る献華を見据えて、寒さに凍えるように手を擦り合わせながら、辛抱強く、可憐に、ユウリのことを誘っているような気がした。
アオは簡単にユウリと仲直りしようと企んでいる。
そう思う。
だからここで心の衝動のまま、アオのことを強く抱き締めてしまえばまたいずれ、この場は丸く収まったとしても未来に同じことを繰り返してしまうのではないか。
ユウリは何度もアオのことを疑うのではないか。
疑い続けるのではないか。
そんな風に、取り返しがつかないような気がするんだ。
だから。
アオへの疑心を完全に吹き飛ばすためには。
ユウリは右足を上に足を組み、右足の歪に尖った部分を触って奥に潜んでいる銀色のボルトの冷たさを想像して冷静になって衝動を抑えて大きく息を吐き出し言った。「アオちゃん、私も仲直りしたいよ」
「本当?」アオは即座に笑顔になった。
「うん、だけどその前に聞かせて、アオちゃんの真実を私に教えて、アオちゃんのことすきだから教えて欲しいんだよ」
「……真実?」アオは笑顔を硬直させる。
「あなたのアオはどれ?」
「……アオはどれって、え、真実って、ユウリ、意味分からないよ」アオは誤魔化すように、快活に、笑う。
「笑ってないで答えろよ」
ユウリはアオの手首を掴み、唇を彼女の首筋に寄せ、疑心を喉元に突き付ける。
以前のようには逃がさない。
差し違える覚悟があった。
アオへの愛が溢れていると思った。ユウリの視線は火を噴きアオを焦がす愛だった。
愛ゆえ。
だから分かって。
ユウリは彼女への全ての疑心を吐き出し衝突させた。
「あなたは私を殺そうとしているの!? 殺したいの!?」
さあ、答えて。
「……分かったわ、答える」
アオの血の気のない唇が動き表情から笑顔が消え、そして顔から表情が消えた。「答えるからだからそんな怖い顔しないでよ!」
アオの怒鳴り声には感情がなかった。蒸留されたような純粋なヒステリックだけを感じた。人間味がなくて、機械のようなざらついた感じもなくて、ユウリが思ったのは、龍はこんな風に咆哮するのだろうか、ということ。
「……ユウリ、ああ、あなたってなんて鋭い人なの、洞察するの、私はね、私の愛って、ええ、そうなの、そうなんだよ、私の愛って暴力に変換されるの、」龍の調子でアオは言った。「困ったことに勝手にね」
アオは足元にあった鞄をおもむろに膝の上に乗せて中から黒いB5サイズの硬い材質のポーチを取り出しファスナを開いて中身をユウリに見せた。
中には試験官と消毒液と絆創膏と注射器が入っていて、未使用のまま綺麗な状態でそれらは整然とポーチの中で並んでいた。
「これは私の夢よ、」アオは子供みたいにイノセントに笑った。しかしそれはユウリを油断させるために作った嘘の笑顔で武器のようなものであることはすぐに分かった。「ユウリ、暴力的な私はずっとね、あなたの血を見たかったのよ、一緒に寝ているとき何度かあなたに噛み付いたことがあったでしょ? 時に優しく、時に本当に強く、噛み付いたことがあったでしょ? ユウリは笑っていたね、でも私は真剣だった、私はふざけて噛み付いたんじゃないの、私の限りない欲望が純粋にあなたに噛み付きたいと思ったの、本当は私あなたのことが食べたかった、食べたいと思って噛み付いていたんだよ、食べないようにするのに私は必死だった、限りない欲望に必死に抵抗していたの、食べないように我慢するのは苦しかった、本当にユウリを食べてしまいたかったしユウリのあらゆる部分から血が溢れ出るのも見たかった、あなたの皮膚から溢れる血液を飲み干したかったの、つまり最終的に私はあなたを殺したかった、もちろん殺さないよ、安心して、大丈夫、殺さないよ、分かってる、殺しちゃいけないことくらい、もうすぐ高校生になるんだもの、分かるよ、殺したいけど、我慢出来る、私は我慢が出来る女よ、今までも我慢出来ていたでしょ? 今だってあなたの喉に噛み付いてしまいたいのを一生懸命我慢しているんだよ、とても辛いわ、ユウリって凄く私のタイプなんだもの、嫌いなところなんてないの、全部が好きなの、あなたのことを愛しているの、本当よ、ああ、とにかくでもね、私はあなたのことを殺したいけれどいなくなって欲しくはないから、愛し合っていたいからだから、あなたのことは殺さないよ、絶対に、これは間違いのないことよ、信じて、でもその替わり、我慢する替わりに夢を見ずにはいられないわ、あなたのことを殺したいっていう衝動は、私に一つに夢を抱かせたのよ、ユウリ、それはね、ユウリ、二人の血液をこの試験官の中で混ぜ合わせるっていうことなの、そして二人はこの試験官を間に挟んで記念写真を撮るの、凄く暴力的で猟奇的で素敵な思い出になると思わない? ユウリ、それが私の夢なの、ユウリ、だから殺したくても殺さないよ、愛しい人を私は絶対に失いたくはないんだ、殺さない、心配しないで」
アオは言った。
殺さないと。
虚空を睨み、その先にアオい献華に誓っているようだった。
ユウリの視線の先に華は、ゆらゆらと揺れて炎に見え、次第に龍が空華と感じられた。
ユウリの全身からは汗が噴き出していた。
アオのアオは、ユウリが思っていたよりもアオく灼熱だった。
華は真実を見せる。
ユウリの紅蓮はいともたやすくアオい炎に呑み込まれてしまったようで。
動けなかった。
今ならアオは簡単にユウリのことを殺せるだろう。
アオは今までにない魅惑的な顔をしてその双眸にユウリの恐怖に戦慄する顔を映している。
アオは。
ゆっくりとユウリの肩に触れた。
そして牙を隠した唇がユウリの唇に優しく接触した。
アオはユウリを見つめる。
強く。
でも優しい眼をしていた。
ユウリは見つめ返す。
虚勢を張って。
強く。
つよがって。
あなたの全てを受け止めた振りをした。
でも心はただ。
どうして殺さないのかという疑問に震えている。
アオはクスリと笑って口を開く。
「それは、」龍が空華と契り。「殺さないのは、本当だよ」
二秒の沈黙の後、ユウリは渇ききった喉によってしゃがれた声を発した。
「……信じるよ、何もかも」
そしてユウリは大きく息を吐いて纏めた髪を解いた。
ファンタシィ・フェイダ・ウェイが聞きたい。
何もかも吹き飛ばしたいと思った。
吹き飛ばされたいと思った。
しかしユウリの右足はもうすぐ完全に治癒し歩くことを強制するだろう。
都合のいい優しい風が到来するまで立ち止まってはいられないだろう。
目を瞑り続けてはいられないだろう。
見つめ続けなければならないだろう。
あなたがいる錦景の街を。
「全てを教えてくれた、あなたが好きよ」
とりあえず開けた目は、どんな未来を映すでしょうか。




