A3 その16 『女性は』 極
▲極立ぴかリ▲
「ここには……」
その女性は、唾を吐き捨てるように呟くと、駆け足で私の横を通り抜けていきます。強い香水の臭いが鼻をつきます。
私は、引き寄せられるかのように、女性の後を目で追います。三十歳前後の女性で、化粧で表情が彩られ、煌びやかな色合いを魅せる髪は、どこか現実離れし、とても派手でした。私と同じくらいの背で、私と同じような体形です。
カツン、カツンとヒールの音が店内で強く響き渡りました。そのたびに、ドクドクと私の心臓が音を奏でます。
女性は、一瞬だけ私を見据えました。
金縛りにあったかのように、私の体が動かなくなります。今まで感じていたカラスミの違和感など、遥か彼方へ吹き飛んでしまったかのように、強い衝撃を味わいます。
私が、一瞬瞬きした瞬間、女性は消えていました。
私の心臓だけが、音を響かせています……。
ふと、肘に痛みを感じ、恐る恐る視線をかざすと……あぁ、籠が、肘に食い込んでいました。
自分が何故スーパーに訪れたのか、その理由を自らにかざします。
――セセギ君に、私の作ったお弁当を食べてもらい、そして「美味しい」と言ってもらう。そのために、食材を求めて、カラスミの中にあるスーパーを訪れたのです。
多少のズレや、見知らぬ女性に、何を私は驚いているのでしょうか?
ふと、私の横を、会社帰りのお腹がぽってりと出ている中年の男性が通りかかります。途端に、自らのお腹に対して凄まじいほどの劣情を覚えたのか、食品の添加物やカロリー、コレステロール、などなどの総合的な観点からダイエットに奮闘しようと意気込みを語りながら走り始めます。
私を中心に広がる、狂った世界、はい、私の力は、顕在でございます!
ですので、もう何度思ったことでしょうか、問題ありません。
絶対に、
絶対に、
あぁ、私は本当にか弱いです、悪い意味で「何でよぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
という絶叫が店内に轟き、私は泣きそうになりました……。
突然の叫び声に、足が竦み、全身を恐怖が包み込みます。ゴクンと唾を呑み込み、私はそっと声が発せられた場所を目指して進んでいました。
無意識のうちに、です。本当なら、私は全力でレジまで駆けて、お会計を済ませ、即座にこのカラスミから脱出したいはずです。しかし、何か……まるで見えない糸に引き寄せられるかのように、私の足は無機質に交互に床を蹴りつけ、歩みを止めないのです。
食品コーナー、お菓子コーナーにはいません。
雑貨コーナーに、女性はいました。
「あぁ、もうなっんっでっ! ここにも無いわけぇえええええ」と先ほどよりは声が小さくなりましたが、地団駄を踏みながら、声を荒げていました。
化粧で飾られた表情は、亀裂が入ったかのように崩れ、くしゃくしゃにひきつっていました。女性は、自分の髪を抑えるかのようにしながら、その雑貨コーナーの、日用品を睨みつけていました。
ぶるぶるとケータイのバイブのように震えると、大きく溜息を付きます。
そして、涙を流し始めました。
「あぁ、あぁ、あぁぁあああ」と、言葉にならない音を掻き鳴らして……。
この女性に、何があったのか……。
そう考えていると、その考察を読み取ったかのように、女性はびくっと体を震わせてから、私を睨みつけました。
真っ赤に充血した、一際大きな瞳が二つ、刺すような視線で私を捕えます。危険……と全身が警戒した瞬間、女性は私の目の前に居ました。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、全身から力が抜けました。女性の涙が貯まった瞳には、震えて顔を真っ青に染めた、私が居ました。
「何だ、あぁッ!?」
殴りつけられたかのような、異様な迫力に身が竦んでしまいます。「あ、ひぃ……」
「何人のことああぁあああああああああああああああああッッッ!!!!!」
「すみませんすみませんすみません!」
うわわわわわわ!
何何何何なんですかぁ……。突然、怒鳴らなく、ても、いいじゃないですかッ!
私はもう泣きながら全力で逃げ出しました。
やっぱり、
ここは……ッ、
カラスミです。何で、私がこんな目に……。初対面の方に、何故恐い目で睨まれないとならないのですか、睨まれるのはセセギ君だけで、もう十分です。
と、私の足が止まります。
――初対面、という言葉が、私の中で浮き上がってきたからです。
私は、お店の入口に立っていました。籠を持ちながら。……危うく、万引きするところでした。
踵を返し、私は、再び先ほどの雑貨コーナーへ向かいました。
そんな私に、何故と問いを投げつけます。
だって、もしもまた見つかってしまったら、今度は……危険に満ち溢れています。ここは、見つからないようにレジへ向かい、即座に帰宅することが最良の選択でしょう。
しかし、先ほどの女性の顔はもちろん、姿から声、その全てに……異様な既視感を覚えるのです。私の記憶には存在しない姿のはずなのに、です。
抜き足、差し足で、磁石に引き寄せられる鉄のように、私は雑貨コーナーに辿りつくと、そっと覗き込ます。
依然、女性はポツンと一人で立ちすくんでいました。涙でお化粧が剥がれ、真っ黒な線となり頬を汚しています。
血走った目で、何度も何度も舐めるようにコーナーを見つめています。
「ない……ない……ない……ない……ない……」と呪文を呟くように、何かを探しながら……。
一体何を探しているのでしょうか?
と、一瞬女性の動きが止まります。
硬直、です。
次の瞬間、こちらへ……刹那、私は身を隠しました。ギリギリ、セーフです。もう少しで見つかるところでした……。「おい!」
「はい……」
あぁ、見つかっていました。慌てて逃げようとしましたが、ぐいっと腕を掴まれてしまいます。
万事休す、です。セセギ君、助けてください……。
という願い虚しく、その女性は力任せに腕を掃い、私を引きづります。痛いです、腕が痛いです……。
「てめぇ、なぁ、おい!? 私に、なんかあるの?」
「い、いぇ……あの」
女性の圧力は異様でした。
このカラスミよりも遥かに淀み、そして滲んだ……強いズレを受けます。ズレとは、何かはわかりません。得体の知れない感覚です。
「だったらさぁ、まとわりつかないでよぉ……。今さぁ、ほんっとイライラしてんの……。邪魔すんな……私のこと、ねぇ、変? ズレてる?」
「え……」
と、まるで私の思考を抜き取られたかのように、女性は言葉を発します。
逃げよう……。
逃げないと、危険と、全身が悲鳴を上げていました。透き通るほど綺麗な恐怖が、私の中で蠢き、体が破裂しそうです。
しかし、私は敢えて、ぐっと女性を睨みつけます。
「何かお探しですか?」と声を発していました……。
「え?」
女性は、私が問いかけてきたことで、ポカンと口を開けています。
「あの、先ほどから……ずっと、その日用品を眺めていますよね?」
「……そうだけど」
「私も、一緒に手伝いましょうか、探すのを……」
女性は、訝しげに私を睨みつけます。光を失った瞳が、じっとりと舐めるように私を足から頭のてっぺんまで見つめました。
「あ、あんたさ……」
「はい?」
「どこか……え、いや……うん……あぁ、そういう……なるほど」
女性は何かを言いかけましたが、一人で納得するかのようにコクコクと首を振り、私から視線を外しました。溜息を一つ着きます。
「あのぉ……」
「縄が、無いのよ」
「縄?」「そう、ここでねぇ、今日は六軒目、縄を探すために訪れたのは……。途中のコンビニにあるわけないし、デパートは付近に無くて、仕方なく、スーパーを巡っていた」
「あ、私も、です」
「……あんたも、縄を」「いえ、私は食材を求めて」
「はぁ? ごめんね、意味わからない」
「私も、ここに来るまで、いくつものお店を廻りました。そして、まるで導かれるかのように、このスーパーへたどり着いたのです」
「まるで、導かれるかのように……」
女性は、私が言った言葉を口の中で味わうかのように反復し、ふっと小さく溜息を洩らします。
「へぇ、料理でもするの?」
「あ、はい……。一応」「一応? ふーん、なるほどぉ、お弁当でも作るんでしょ?」
「え、あ……はい、そうですけど」
何故お弁当まで言い当てたのか、と疑問に思った瞬間、「好きな男の子のために、でしょ」
と女性は意地悪く言いました。
蔑みの籠った瞳でした。
――しかし、その僅かな一瞬、女性の瞳に綺麗な色が灯ったような、気がしました。
「べ、別にそういうわけでは」
「料理得意……そうだよね、あなた。いいと思うよ、大好きな人のために一生懸命になるのって、私、凄く好きよ。ほら、何だか……人間的じゃない!」
「人間、的?」
その瞬間、女性は大きく息を吸い込むと、語り始めます。まるで、狂ったかのようにです。
「そうよぉ。人間は、他の動物と違って理性が備わっている。フェロモンはもう退化しているから、もう本能はもちろんだけど、それ以上に理性で訴えないといけない。だから、人はあなたみたいに必死に頑張って好きな人の視線を自分に向けさせるために努力するの。凄いよね、賢いよね、私は、それ、凄く好き……。あぁ、何で、人間は知性を持ってしまったのでしょうね? 知性……考える、痛み。生死を分ける肉体的な痛みという信号に留まっておけば良いのに、思考があって、知性があって、考えて考えて意識が存在してしまう。故に、精神に苦痛が生まれてしまう。辛いよねぇ、もし、私が大好きな人のためにお弁当を作って目の前で貶されてしまったら死にたくなるもの。あぁ、あぁ、あぁ、あなた、何しに私の前に来てしまったの? やめてよぉ、これ以上虐めないでください。もう勘弁してください」
女性は、先ほどと打って変わって、声を荒げずに言葉を吐きだし始めます。私の顔から視線を外し、まるで何かから逃げ、そして怯えるかのように。口から泡を吐き、ガタガタと震えています。
「……だ、大丈夫、ですか?」
「あぁ、そうですね、一つ教えておきましょう。煮物が良いかもしれません。タケノコを、使用してツナと煮るのです。彼、実は、タケノコが好きなの……。よく、作ってあげたから」
「え、あなたは……セ」ピリリリリリリリ――
と、私のケータイが鳴り響きます。画面を覗くと、母からメールが送られていました。きっと、帰りの遅い私を心配してのメールでしょう。
「知っていますよ、彼がまだ若かった頃、近くに居ましたから」女性は、記憶を巡るかのように言います。
若かった、という言い方に少し引っかかりを感じましたが、……この人は、セセギ君が幼い頃、近所に住んでいた方なのでしょうか?
――それよりも、何故私の情報を知っているのでしょうか?
この女性から受ける、異様な感覚の正体が、掴めません……。
「さて、私はそろそろあなたの前から、消えますね。きっと、この場所が狂っているから、世界が歪んでしまったのでしょう。これ以上いると、もう、私は辛いので……」
女性は再度売り場を眺め、肩で溜息を付きます。「やっぱ、ないわ」
「縄、ですか?」
「そう、丈夫な奴。簡単にきれちゃうんだよね」女性は首の辺りを摩りながら答えます。
「ここには、ありませんよ」
「みたいね。ごめんねぇ、ベラベラ喋って時間潰しちゃって。でも、タケノコの煮物は絶対に入れておくように」
「は、はい……」
女性は頷くと、踵を返し、私から離れて行きます。が、すぐに止まると、ゆっくりと振り返り、私を真っ直ぐに見つめます。
「あなたは、間違わないでくださいね。私は、馬鹿だから駄目でしたので。私の正体に気づいたら、いえ、気づいた時点でもう地獄へたどり着いていますね。この後、あなたの力なんて全く及ばない人間が現れるから……。決して、道を間違わないで……。彼から、離れないでください」
そこで、女性はニコリと微笑みました。
まるで、鏡を見たかのような錯覚を受けます。そして、女性はカツカツと足音を響かせて、いなくなりました。
一人残された私は、レジへ向かおうとして、……戻り、タケノコを探しましたが……見つかりません。それに、明日なのに、下ごしらえなどで時間が、と思いながらケータイを開き、先ほど送られてきた母のメールを確認します。
『今お隣からタケノコを頂いたわ。早く帰ってきなさい』とタッパーに大量に切り分けられて詰められたタケノコが映っていました。――なんというご都合主義、と言いたくなりましたが、私の運が良いと納得して、レジへ向かいました。
次の日。
セセギ君は、屋上の扉の前に居ました。
屋上で待ち合わせのはずなのに、中に入ってくれません。その様子を胸を慣らしながら私は凝視していました。
もしも、このまま戻ってしまったら、どうしよう。
セセギ君を前にすると、セセギ君を大好きと思うと同時に、……あの時、首を絞められた想い出や、アマネのために全力を持って立ち向かうセセギ君の姿が、私の中で暴れます。
その二つを基にする、私を嫌うセセギ君は、いつまで経っても私の中から消えません。未だに炎を燃やし、それが私の体に触れるたびに痛みを覚えます。快感に変改出来ない、精神を削られる苦痛でした。
――セセギ君は、扉を開き、中へ一歩進みます。
しかし、そこでまた立ち止まります。
溜息を付いて。
また、セセギ君に不味い、とサゲスマレタラ? 恐いです。
哀しい。
好意の押し付けで、自分でも迷惑かと、思っています。
あぁ、またネガティブな思考ですね。私は、そうです、大正儀セセラギ、通称――セセギ、君に美味しい! と口から捻り出すために、ここへ来たのです。
今更なんと言われようと、問題無い、そう胸に刻み、ここまでたどり着きました。
好きです。
本当です、これは、嘘偽りの無い本心です。
「溜息をついて……そんなに嫌ですか?」
「うわッ!」
気が付くと、声をかけていました。そんな私に驚きます。無意識のようで、私は逃げるように屋上へ向かいます。セセギ君は追って、きました。
セセギ君の表情を伺うと……あぁ、もう、あの恐い目で睨んでいません。
それだけで、ほっと、安心しました。それだけで、胸が暖かくなります。
セセギ君は、美味しそうに私が作ったお弁当を食べて下さりました。唐揚げはもちろん、タケノコの煮物を気に入り、喜んでいました。
そこからの記憶が、薄くて、どうやら、私はセセギ君に告白をしたらしく、フラれるかと思っていましたけど……セセギ君は頷いてくれて……。
――夢なら、覚めないでください。




