X^4 2 目尻が垂れてさ
一人の女性が、俺を見下ろしている。
途端に、鈍い衝撃が脳内で駆け巡り、脳から記憶を無理やり掴み出すかのように、目の前で驚いた表情を浮かべる――彼女の記憶が蘇った。
俺は、高校生の二年で、当時の彼女と出会い、付き合っていた。
だが、大学に入り、三年が経ったところで、別れてしまった。理由は、彼女の浮気だった。俺と彼女は別に大学に入り、料理が趣味だった彼女は、友達に誘われ、料理同好会というサークルに入っていた。三年になって、後輩が入り、そいつと彼女は俺の知らぬうちに付き合っていた。そして、俺は、ある日、彼女が、俺のアパートの中で、楽しそうに交わっている姿と出くわしてしまった。
当時の記憶がぞわり、ぞわりと俺を侵食するかのように足元から盛り上がってきた。が、肌を針でチクっと刺すかのような痛みを残しただけで、その記録は消えてしまった。
それ以上、何も感じない。
俺は、怖いくらいに心情が渇いていた。もちろん、当時感じた怒りや悲しみを思い出しはする。年月が過ぎただけではどうしようもない感情が俺の中には存在している。だが、今それを燃やし、再び燃えるような怒りに駆られた行動を移せないのだ。
数年の歳月と、体を剥されていくかのようなこの現在の生活が、俺を、単純にしていた。
別れてから、俺は、彼女と二度と会わないつもりだった。
――偶然。
俺は就職し、一年経って実家から離れた支店へ飛ばされて、その付近で一人暮らしを始めていた。現在居るこの場所は、俺の知っている彼女の生活範囲からは確実に外れていた。故に、この出会いは偶然だった。
想い出と一緒に、記憶ごと全てを置いてきたはずなのに、こうして出会うと、その記憶が蘇る想いだった。まるで、走馬灯のように。
彼女も、俺と同じく記憶がどばっと噴き出しているようで、眼に焦点が無かった。が、小さく息を吸い込むと、何か言いたげに口を開けた。だが、言葉が続かない。
俺は、見かねて声をかけた。
「久しぶり」と震えながら言った。予想以上に緊張しているのか、おかしな声色だった。
「うん……何年ぶり……そんなこと考えちゃうくらい、昔になるんだ」
彼女は、当時の記憶を口の中で味わうかのようにして呟いた。俺と違い、彼女には全く時が流れていない――と思った瞬間、それは間違いだと悟った。
「そう、だね」
「本当、懐かしい」
「お前は……相変わらず何も変わらないな」
「えー、そんなこと無いよ。全く違うけど」
「……少し老けた?」
冗談を言うと、彼女は、遠慮するかのように笑った。
「酷い! それ、セクハラだよぉ」
「嘘々、大人っぽくなったよ。昔はガキっぽかったのに……」
「馬鹿にしているでしょ? そっちこそ老けすぎだよ。一瞬誰だかわからなかったもの。しっかり食べている?」
「誰かさんのおかげで舌が肥えてさ、食うのに困るようになったよ」
彼女の趣味は料理で、そこらへんの店など相手にならないほど腕が立ち、付き合っていた頃は、よく飯を作ってくれた。
俺が、当時の彼女との思い出を語ると、一瞬、彼女の瞳に、綺麗な灯が浮かんだが、即座に、灰色の瞳へ変わった。目から、光が消えていく。
「それって私のせい? 逆に感謝して欲しい」
「まぁ、確かにそうだな。ありがとう」
「……え、……あ、うん」
彼女はあまり変化が見られないように感じた。が、睡魔から離れ、彼女と出会った驚きから解放されていくにつれて、変化が訪れてくる。相変わらず小柄で、妙に痩せていたが……痩せ過ぎだ。やや丸っこい顔も、頬がコケ、眼が大きく飛出し、それを無理やり化粧で誤魔化していた。髪からは依然のような弾力は消え失せ、原色の目立つ色で染めていた。まるで人工的に塗り替えられたかのように、眼に着く。思わず、視線を外してしまう。
『老けた』という言葉では収まりきらないほどの変化がある。長い時間、彼女の隣に居た俺だから理解出来る違い、針のように眼に突き刺さってくる。それに戸惑っていると、「……したの?」という質問が来たことで、無理やり彼女の顔を見つめた。
「え?」「結婚したんだ、おめでとう」
「え、あ……あぁ、うん」俺は薬指で小さく光る指輪を眺め、頷いた。「四年前、かな……」
「子供居るの?」
「男の子が。先月二歳になってさ、可愛いよ。俺を見ると、パパーって言いながら追いかけてくるんだ」
「へぇ……絶対に目つき悪いよね」
「……皆そう答えるのな。俺ってそんなに険しい顔しているの?」
「毎日睨まれていた私だから言える、正直恐いよ。でも、私は、結構……」
キィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイン
と、金属音が響き、車内が揺れた。トンネルに入り、近距離で向いの車両とすれ違ったからだ。凄まじい振動に、目の前で立つ彼女は、倒れそうになった。
「大丈夫? 座ったら?」
「うん……今の凄かったね、びっくりした」
彼女は心底驚いているようで、落ち着きなく座った。顔を斜め下へ向けて、彼女を見つめると、また妙な、だけど懐かしい感覚が蘇る。彼女は、小さく震えていた。
「大丈夫?」
「……さい」
先ほどまで普遍的に会話を続けていたはずなのに、彼女の瞳には大粒の涙が浮かび、重力に引かれてボタボタと落ちていく。
「ごめん……なさい」「あー、いいよ、今更。もう気にしていない、は嘘になるけど、謝らなくていいよ。あの時、散々謝られたからさ……」
「私は……私は……」
「久しぶりの再会なんだからさ、そういう話は辞めよう。過去に、決着はついただろ? 謝るのなら、掘り返さないで。ほら、俺の子供さ、俺と違って、目尻が垂れてさ、母親似なのか、目つきが悪く無いんだよ。親、親戚知り合い達が良かった良かった、と人前で安堵するくらい」
俺がちゃかすように言うと、彼女は深呼吸をしてから、視線を足元へ落とす。




