第四話:蜘蛛の巣の完成
織田信長が本能寺の炎の中に消えた翌日、京の街は不気味な静寂に包まれていた。
主君を討ち果たした明智光秀は、勝利の美酒に酔う暇もなく、次々と届く「冷酷な現実」に直面していた。
六月三日、光秀は信頼していた公家、吉田兼見を内々に呼び出した。
朝廷から謀反を正当化する「錦の御旗」や、天下静謐の勅命を得るためである。
しかし、現れた兼見の態度は、数日前とは打って変わって冷淡なものだった。
「十兵衛殿……。主君殺しの悪名高き今、軽々に朝廷が動くことは叶いませぬ。帝も今回の件には深く心を痛めておいでです」
「な、何と……! 兼見殿、近衛(前久)様と共に、信長を討てと私をそそのかしたのは、あなた方ではないか!」
光秀が激昂し、畳を叩く。
しかし兼見は、すっと目をそらした。
すでに前関白・近衛前久は、信長殺しの黒幕として織田の残党から疑われることを恐れ、京の邸宅を捨てて徳川領へと逃亡する準備を始めていた。
朝廷にとって、光秀は「信長という脅威を排除するための道具」であり、用が済めば、主君を殺した恐ろしい逆賊でしかなかったのだ。
「武士の習いとはいえ、あまりに惨い。……十兵衛殿、朝廷の関与を示すような文は、すべて処分されたがよろしゅうございます。我らも、そのような記録は一切残しませぬゆえ」
兼見は冷たく言い放ち、逃げるように去っていった。
光秀は、信長が死に際に放った「お前はただの操り人形だ」という言葉の真意を、身を以て知ることとなった。
秀吉の「狂気」の大返し光秀の絶望に追い打ちをかけるように、西国から信じがたい報せが届いた。
備中高松城で毛利軍と対峙していたはずの羽柴筑前守秀吉が、すでに毛利と和睦を結び、数万の大軍を率いて猛烈な速さで京へ向かって引き返しているというのだ。
「馬鹿な……。毛利攻めの最中だぞ。なぜ、これほど早く動けるのだ!?」
光秀は戦慄した。通常、大名同士の和睦や軍勢の撤退には数日はかかる。
秀吉のこの速さは、まるで「本能寺で信長が死ぬことを、最初から知っていた」としか思えなかった。
その頃、秀吉の軍勢は泥を跳ね上げながら、街道を爆進していた。
「走れ! 走らぬか! 遅れた者は置いていくぞ!」
馬上で叫ぶ秀吉の顔には、主君を失った悲しみなど微塵もなかった。
あるのは、剥き出しの野心。
すべては軍師・黒田官兵衛と共に仕組んだ、光秀を孤立させるための罠だった。
光秀が朝廷にそそのかされて動く瞬間を、秀吉は今か今かと待ち構えていたのだ。
「光秀め、見事な大仕事をやってのけてくれたわ。大殿様を討った逆賊として、お前の首はワシが天下を取るための最高の踏み台にさせてもらう!」
家康の「沈黙」という加担
一方、堺から命からがら伊賀越えを敢行し、本国・三河へと帰り着いた徳川家康もまた、静かに動いていた。
家康の元には、京を追われた近衛前久からの庇護を求める使者や、光秀からの「共に明智の天下を支えてほしい」という同盟の誘いが届いていた。
「殿、明智に応じられますか?」
側近の服部半蔵が尋ねる。家康は冷たい目で光秀の書状を破り捨て、蝋燭の炎にくべた。
「応じるわけがなかろう。光秀の命運はあと数日だ。朝廷にハメられ、秀吉に背後を突かれた哀れな男に、手を貸す価値はない」
家康は光秀の謀反を事前に察知していながら、あえて信長に知らせず泳がせた。
信長が死に、光秀が秀吉に討たれれば、織田の巨大な権力は瓦解する。
その時こそ、徳川が天下へ名乗りを上げる絶好の機会だった。
「光秀よ、お主の恨みも、朝廷の権威も、秀吉の野心も、すべては我が徳川が天下を統べるための血肉となる。……半蔵、甲斐・信濃(旧織田領)へ兵を出せ。切り取り次第じゃ」
家康は光秀の悲劇を冷徹に見つめながら、次の時代を奪い取るための爪を研いでいた。
天正十年、六月十日。雨が降りしきる中、山崎の地に布陣した明智光秀の前に、秀吉率いる二万超の「大返し」の軍勢が姿を現した。
味方をしてくれるはずだった朝廷には見捨てられ、同盟を期待した家康からは無視され、光秀は完全に孤立していた。
「私は……最初から、巨大な蜘蛛の巣の真ん中で踊らされていただけだったのか……」
冷たい雨に打たれながら、光秀は迫り来る秀吉の軍勢を見つめ、静かに最後の戦いの覚悟を決めるのだった。




