最終話:泥中の高笑い
天正十年、六月十三日。雨の山崎。
勝敗の行方は、誰もが予想し得なかった奇策によって決した。
「秀吉殿、お主の算盤は、少々早すぎたようだ」
そう言って勝鬨をあげるはずだった明智光秀の前に、信じがたい光景が広がっていた。
動揺し、崩壊するはずだった羽柴軍の陣形が、瞬く間に立て直されていく。
光秀が仕掛けた「秀吉黒幕説」の偽情報は、すでに羽柴の陣中では通用しなくなっていた。
なぜなら、その情報を逆手に取る男が、秀吉の傍らにいたからである。
「十兵衛殿。お主が我らの『大返し』の早さを怪しみ、織田の旧臣に密書を送ることは、官兵衛の読み通りにございます」
黒田官兵衛が冷酷に微笑む。
秀吉は、光秀が朝廷の公家たち(近衛前久や吉田兼見)の蜘蛛の巣に絡め取られている段階から、すべてを見抜いていた。
光秀が偽の逆情報を流すことすら計算に入れ、事前に織田旧臣たちの家族を人質に取り、同時に莫大な黄金を握らせて口を封じていたのだ。
光秀の「知略」は、秀吉の圧倒的な「財力」と「冷徹な現実主義」の前に、完全に叩き潰された。
「かかれぇッ! 逆賊・明智の首を挙げいッ!」
秀吉の怒号と共に、地響きのような伏兵が明智軍の側面を突いた。
勝負は一瞬であった。
味方と信じた織田旧臣たちの裏切りに遭い、四方から押し寄せる羽柴軍の前に、明智軍は壊滅。
光秀は満身創痍となり、わずかな手兵と共に山崎の戦場から這う這うの体で脱出するしかなかった。
しとしとと降る五月雨が、小栗栖の竹やぶを濡らす。
逃げ延びようとする光秀の身体に、闇から突き出された泥民の竹槍が容赦なく突き刺さった。
「がはっ……!」
泥の中に転がり落ち、血を吐きながら、光秀は天を仰いだ。自分は朝廷のために動いた。
秀吉の裏をかいたつもりだった。
しかし、近衛前久も、吉田兼見も、そして自分自身すらも、最初から「羽柴秀吉」という男が天下を奪うための巨大な舞台装置の上で、体良く踊らされていただけだったのだ。
「上様……おっしゃる通り、私は、ただの操り人形でございました……」
光秀の意識は、冷たい泥の中に沈み、そのまま息絶えた。
数日後。京、焼け落ちた本能寺の跡地。
まだ煙の立ち上る焦土の上に、明智光秀の首級が運ばれてきた。
それを覗き込んだ羽柴秀吉は、じっと首を見つめた後、突然、天を仰いで大笑いした。
「ハハハハハ! 見事じゃ、見事じゃ十兵衛! お主のおかげで、信長様も、お主自身も、そしてワシの邪魔になる朝廷の権威も、すべてこの炎の中に消え去ったわ!」
秀吉の高笑いが、焼け跡に不気味に響き渡る。
近衛前久や吉田兼見ら公家たちは、光秀の敗北を知るや否や、秀吉の前に平伏し、命乞いをして己の権益をすべて秀吉に差し出していた。
秀吉は、信長を殺した光秀を討った「大義名分」と、朝廷をも従える「圧倒的な権力」の二つを、完全にその掌中に収めたのだ。
「信長様、あなたの天下布武を引き継ぐのは、あの堅物の光秀でも、東国で日和っておる徳川殿でもない! この泥の中から這い上がった、ワシ、羽柴秀吉じゃ!」
秀吉は光秀の首を無造作に足蹴にすると、黄金に輝く一期一振を抜き放ち、京の天へと突き上げた。
「ハハハハハ! 面白い! 天下はワシのものじゃ! すべてワシのものじゃあハハハハハハッ!」
雨の上がった京の夜空に、勝者となった秀吉の狂気的な高笑いだけが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
歴史は、最も泥臭く、最も冷徹に立ち回ったこの男を「天下人」として記録することになる。
真の黒幕の、完全なる勝利であった。




