第三話:紅蓮の灰
天正十年、六月二日未明。
京の街を包む夜霧を切り裂き、一万三千の明智軍が本能寺を包囲した。
「放てえッ!」
桔梗の旗印の下、一斉に放たれた火矢が本能寺の茅葺き屋根に次々と突き刺さる。
瞬く間に、静寂だった寺院は赤黒い炎と黒煙に包まれた。
近衛邸の密談
本能寺のすぐ近くに位置する、前関白・近衛前久の邸宅。
その一室では、不気味なほどに冷徹な時間が流れていた。
窓の外から聞こえる地響きのような怒号と、夜空を赤く染める炎を見つめながら、前久は静かに扇子を弄んでいた。
その傍らには、光秀と最も親しい公家であり、京都の諸事を司る神職でもある吉田兼見が、冷や汗をにじませながら控えている。
「始まったか、兼見」
前久の声には、微塵の動揺もなかった。
「はっ。十兵衛(光秀)の軍勢、過たず本能寺を囲みましてございます。……これにて、我が朝廷を足蹴にし、あろうことか帝に譲位を迫った尊大なる『神』も、灰に帰すこととなりましょう」
兼見が深く頭を下げながら答える。
近衛前久は不敵に微笑んだ。
「ホホホ 信長はやりすぎたのだ。暦を変え、天下の理を我が物とし、関白の座すら形骸化させようとした。神を気取る男の命運など、所詮はここまでよ」
公家たちは、光秀の「生真面目さ」と「孤立への恐怖」を完璧に利用した。
信長が光秀の領地を取り上げるという偽の噂を流し、朝廷の危機を大げさに説いて光秀を「大義の刃」へと仕立て上げたのだ。
「兼見よ、光秀が信長を討ち果たした後は、すぐに動きなされ。光秀を政権の担当者として認める使者を送り、朝廷の権威を都に知らしめるのだ」
「御意。……しかし、もし十兵衛が敗れた場合は?」
兼見の問いに、前久は冷たい目で一瞥をくれた。
「その時は、すべての記録を消し去るまで。光秀との関わりを示す文はすべて燃やし、日記すらも書き直せばよい。我らは常に、勝者の味方だ」
本能寺の対峙
燃え盛る本能寺の奥の間。
織田信長は、肩に矢を受け、血に染まりながらも、愛槍を振るって押し寄せる明智兵をなぎ倒していた。
しかし、多勢に無勢。
お堂の梁が燃え落ち、すでに退路は断たれていた。
激しい炎の向こうに、一騎の馬が止まる。
馬上にいるのは、かつて誰よりも信頼した男、明智光秀であった。
「十兵衛……。お前が、裏切るか」
信長は、煤と血にまみれた顔で不敵に笑った。
光秀は馬から降り、炎に揺れる主君を見つめた。
「上様、あなたの天下布武は、日ノ本を滅ぼす狂気でございます。私は……朝廷と、この国の理を守るために、あなたを討ちます」
その言葉を聞いた瞬間、信長は天を仰いで大笑いした。
その笑い声は、燃え盛る炎の爆ぜる音よりも大きく響いた。
「朝廷だと? 伝統だと? くだらん! 十兵衛、お前ほどの知将が、まだ気づかぬのか!」
信長は槍を地面に突き立て、光秀を哀れむような目で睨みつけた。
「お前はただの肉を運ぶ『操り人形』に過ぎん。近衛前久や吉田兼見の口車に乗せられ、正義の味方にでもなったつもりか! 彼らは、己の権益を守るために、お前という都合のいい刃を使っただけだ!」
光秀の身体が、一瞬、凍りついたように硬直した。
「お前が俺を殺せば、朝廷はお前を『逆賊』として切り捨てる。家康殿も、そして何より西国にいるサルが、お前の首を狙って、狂ったようにこの京へ引き返してくるわ! お前は最初から、奴らの蜘蛛の巣に絡め取られた哀れな生贄なのだ!」
信長の鋭い言葉が、光秀の胸を容赦なく抉る。
自分の大義名分が、ただの「謀略の道具」に過ぎなかったという恐るべき可能性が、光秀の脳裏をよぎった。「是非に及ばず……!」
信長はそう言い残すと、自らの真意を悟らぬまま踊らされた哀れな家臣に背を向け、燃え盛る奥の間へと消えていった。
「上様! 待ってくだされ、上様――!」
光秀の叫びは、お堂が崩れ落ちる轟音にかき消された。
天正十年、六月二日。
織田信長、本能寺の炎の中に没す。
主君を討ち果たしたはずの光秀の顔は、勝利の喜びではなく、底知れぬ絶望の青に染まっていた。




