第二話:交差する闇の糸
天正十年、五月二十九日。
安土から京・本能寺へと入った織田信長の護衛は、わずか百人足らずであった。
その隙を、京の闇に潜む者たちが見逃すはずはなかった。
しかし、明智光秀が手にした「朝廷の密書」の裏では、光秀の預かり知らぬところで、さらなる思惑が激しく交差していた。
備中高松城・羽柴秀吉の算盤
遥か西国、備中高松城の陣。
降りしきる雨の中、羽柴筑前守秀吉は泥にまみれた軍師・黒田官兵衛と差し向かいで座っていた。
目の前には、京の密偵から届いたばかりの信長の本能寺入りの報がある。
「官兵衛、仕込みは上々じゃな」
秀吉の目が、怪しく光る。
秀吉は毛利軍を水攻めで追い詰めながら、同時に京の公家たちへ巨額の献金を送り、光秀を孤立させるための風聞を流し続けていた。
光秀が安土城で家康の饗応役を解任された際、「信長が光秀の領地を没収し、出雲・石見へ国替えを命じる」という真偽不明の噂を流したのも、秀吉の放った忍びであった。
「はっ。明智殿は生真面目な男。朝廷の危機、そして我が身の破滅を恐れ、必ず動きます。……信長様には、まもなく御退場願いましょう」
官兵衛が冷酷に微笑む。
秀吉の狙いは、光秀に信長を討たせ、その光秀を自分が「仇討ちの英雄」として討つこと。
主君への忠義の裏で、秀吉はすでに、信長の死後に自分が天下を握るための「中国大返し」の準備を、極秘裏に進めていた。
堺・徳川家康の忍び
同じ頃、泉州・堺の街。
信長の命で近畿を物見遊山していた徳川家康は、茶人たちとの宴の最中、ふと席を立った。
裏庭の暗がりに、伊賀忍者の長・服部半蔵が潜んでいる。
「半蔵、光秀殿の動きは」
「はっ。丹波亀山城にて、軍勢に武器弾薬をかき集めさせております。毛利攻めの援軍にしては、あまりにも過剰。狙いは……京にございます」
家康は夜空を見上げ、静かに拳を握りしめた。
かつて信長の命令によって、最愛の妻と嫡男・信康を自害に追い込まれた過去が、家康の胸に蘇る。
信長への服従は、徳川家を生き残らせるための偽りの姿に過ぎなかった。
「光秀め、ついに立ち上がるか。……半蔵、我らは泳ぐぞ。光秀が信長を屠るまで、牙を隠せ。織田の天下が崩壊した瞬間こそ、我が徳川が関東から覇を唱える時ぞ」
家康は光秀の謀反を察知しながらも、あえて信長に報せることなく、沈黙という名の加担を選んだ。
本能寺・織田信長の孤独
六月一日、夜。本能寺の奥の間。
織田信長は、側近の森蘭丸が点てた茶をすすっていた。
その眼光は、すべてを見透かしているかのように鋭く、しかしどこか寂しげであった。
「お蘭。天下が近づくにつれ、周りから人が消えていくな」
朝廷を脅かし、神を称した。
それは、旧来の腐った権力構造を破壊し、この国に二度と戦が起きぬ強固な秩序を作るための狂言であった。
しかし、その真意を理解できる者は誰もいない。
足利義昭は裏で怨恨を募らせ、公家たちは既得権益を守るために光秀をそそのかしている。
そして秀吉や家康が、己の死を待ち望んでいることすら、信長は肌で感じていた。
「上様には、この蘭丸が一生お供いたします」
「ふっ、お前だけか……。キンカンはどうしておる。間もなく、ここへ挨拶に来る頃合いだがな」
信長は、最も信頼し、かつて自分の理想を理解してくれると信じていた明智光秀の顔を思い浮かべた。
しかし、その光秀すらも、押し寄せる時代の闇に呑まれようとしていることを、信長はまだ知らなかった。
天正十年、六月一日、深夜。
丹波亀山城を出発した明智光秀の軍勢一万三千は、京へと向かう桂川を渡っていた。
「我が敵は、本能寺にあり……!」
光秀の叫びが、夜の帳を切り裂く。
朝廷の復権を願う公家、天下を狙う秀吉、復讐を誓う家康、そして孤高の独裁者・信長。
それぞれの武将たちの思惑が複雑に絡み合った操り糸に引かれ、光秀はついに、取り返しのつかない歴史の引き金を引いた。




