第一話:操り糸を引く者
天正十年、五月二十七日 愛宕山。
本能寺の変が起きるわずか五日前、明智光秀は神前で連歌の会を催していた。
「――ときは今、あめが下しる、五月かな」
光秀が詠んだ発句は、一見するとただの雨の情景。
しかしその実、「時は今、土岐(明智の旧姓)が天下を治める五月(五月雨)である」という、恐るべき決意が隠されていた。
連歌会を終え、しとしとと降る雨の音を聴きながら、光秀は愛宕権現の宿坊で一人、深く息を吐き出した。
そのとき、部屋の障子がおもむろに開く。
現れたのは、光秀が最も信頼する重臣、斎藤内蔵助利三だった。
「殿。例の者が、京より参りました」
利三の声は、いつもより一段と低く、緊張に震えている。
光秀は無言で頷いた。
利三が部屋の奥へと導き入れたのは、頭からすっぽりと頭巾を被った、一人の男だった。
男が頭巾を外す。
そこに現れたのは、仕立ての良い直垂をまとった、京の高位の公家であった。
公家は光秀の前に座ると、品のある、しかし氷のように冷たい微笑を浮かべた。
「明智殿。安土での饗応の役、誠にご苦労であったな。信長に足蹴にされ、面目を潰されたと聞いた。……あの男の傲慢さ、もはや目に余るでおじゃる」
光秀は畳に両手を突き、深く頭を下げた。
「お言葉ですが、あれは大殿のいつもの気性に過ぎませぬ。私怨で動くほど、私も愚かではございませぬ」
「ほう、私怨ではないと?」
公家は懐から一通の書状を取り出し、光秀の前に滑らせた。
そこには、信長が朝廷に対して突きつけた、新たな要求が記されていた。
元号の改元への介入、さらには天皇への譲位の迫り。
「あの男は自らを『神』とし、千年以上続くこの国の理を根底から覆そうとしている。
帝の権威を奪い、武力だけで日ノ本を支配するつもりだ。明智殿、お主はそれを見過ごすのか」
光秀の背中に冷たい汗が流れる。
この公家の背後には、信長に危機感を抱く朝廷の意志、そして信長によって京を追われた前将軍・足利義昭の影があった。
彼らは皆、古き良き秩序を守るための「刃」を求めていた。
そしてその刃として選ばれたのが、教養深く、伝統を重んじる明智光秀という男だったのだ。
「朝廷も、そして備後の公方様(足利義昭)も、皆お主の味方だ。お主が動けば、毛利も、上杉も、織田を挟み撃ちにするために呼応する。孤立するのは信長の方なのだよ」
公家は静かに立ち上がり、再び頭巾を被った。
「すべてはお主の双肩にかかっている。日ノ本を、本来の姿に戻してくれ」
男が闇に消えた後、光秀は一人、届けられた書状を見つめていた。
「朝廷が、私を求めている……」
それは、主君への裏切りを「正義」へと変える、あまりにも甘美な操り糸だった。
光秀の心の中で、何かが決定的に壊れ、そして新たな野火が燃え広がっていく。
「敵は……本能寺にあり」
闇の演出家たちによって舞台へと押し出された光秀は、ついにその運命のセリフを、心の中で呟いた。




