催眠の罠と囚われた心㈡
傲慢な悪魔の嘘、天秤で丸裸にしますわ!元・奪衣婆令嬢の華麗なる無双劇
横浜・元町。
石畳の敷かれた洗練された通りには、高級ブティックや老舗の洋菓子店が立ち並び、夕暮れ時のガス灯を模した街灯が、ロマンチックで温かな光を落としている。
そのメインストリートから少し外れた閑静な一角に、周囲の華やかさとは一線を画す、重厚なレンガ造りの洋館がひっそりと佇んでいた。真鍮のプレートには『神代メンタルクリニック』とだけ刻まれており、完全紹介制の隠れ家的な雰囲気を醸し出している。
洋館の向かいにある細い路地の陰で、新子、セト、サラの三人は息を潜めていた。
「見事な結界が張られているね。物理的なセキュリティというより、精神を惑わすような嫌な空気だ」
サラが舌打ちをしながら、洋館の周囲を睨みつけた。
「ええ。霊視で確認しましたが、クリニックの内部から強力な悪魔の残穢が漏れ出しています。それだけではありません。エバさん、この匂いがわかりますか?」
セトが真剣な表情で新子を見た。
新子は鼻先を微かに動かした。悪魔特有の甘く腐った匂いに混じって、どこか懐かしくも、背筋が粟立つような東洋的な香木特有の香りが漂ってきている。
「これは……白檀のお線香の香りですわね。でも、ただの白檀ではありませんわ。私の魂の奥底が、本能的に拒絶反応を示しているような……」
新子は胸元を押さえ、微かに顔をしかめた。
「気づきましたか。あの白檀の香りは、天界にある『天冥石』の香りに極めて近似しているのです」
セトの言葉に、新子はハッとした。天冥石とは、冥界の者が天界に入場する際、能力を封じるために用いられる特殊な鉱石だ。悪魔狩人の杖にもその一部が使用されているが、純度の高い天冥石の香りに近似した空間に長時間留まれば、悪魔狩人の異能は著しく制限され、心身ともに衰弱してしまう。
「ターゲットの悪魔は、我々冥界の存在が近づけないように、意図的にあの香りを焚き染めているのでしょう。悪魔自身も弱体化する諸刃の剣ですが、彼らは人間の精神に深く寄生しているため、影響を最小限に抑えられます。……エバさん、内部での戦闘は極めて不利になります。ここは私たちで……」
「いいえ。私が行きますわ」
新子はセトの制止を遮り、凛とした声で言い切った。
「私のサークルの先輩が、あの中に囚われているのです。レディとして、大切な後輩のSOSを無視して逃げ帰るわけにはいきませんわ」
「ですが、あなたの異能が封じられれば、ただの非力な人間の令嬢と同じになってしまいますよ!」
「心配ご無用ですわ、セト。私は奪衣婆である以前に、菱倉商事の会長の孫娘、菱倉新子ですのよ。権力と財力という現世の最強の武器が、私にはありますわ」
新子はツンと顎を上げ、優雅な足取りで路地裏から歩み出た。
「サラ、セト。あなたたちは外で待機して、万が一悪魔が逃げ出したときの包囲網を敷いておいてちょうだい」
「……やれやれ、お姫様は頑固だね。死ぬんじゃないよ、エバ」
サラが呆れたようにため息をついたのを背中で聞きながら、新子は洋館の重厚な扉の前に立ち、躊躇うことなくインターホンを押した。
『はい、神代クリニックでございます』
スピーカーから、静かで事務的な女性の声が応答した。
「わたくし、朱鳥女子大学の菱倉新子と申します。現在そちらでカウンセリングを受けている友枝希海先輩の急用で参りましたの。至急、中へ入れていただけますかしら?」
『申し訳ございません、菱倉様。当クリニックは完全紹介制、かつ完全予約制となっております。ご予約のない方のご案内は……』
「菱倉商事の菱倉剛蔵の孫娘が、名乗りを上げているのですわよ? もしここで私を門前払いすれば、明日の朝にはこのクリニックの土地建物の所有権がどうなっているか、保証できませんわね」
新子は氷のような冷たさで、容赦のない脅し文句を叩きつけた。相手が人間の権威に弱い存在であれば、これで十分すぎる効果があるはずだ。
数秒の沈黙の後、カチャリという電子音とともに、重厚な扉がゆっくりと内側へ開いた。
「……作戦成功ですわね」
新子は洋館の中へと足を踏み入れた。
エントランスは薄暗く、アンティークの家具が並ぶ豪奢な空間だった。しかし、外で嗅いだ白檀の香りがここでは数十倍の濃度となって充満しており、新子の肺に重くのしかかってきた。
「くっ……。なんて嫌な香りかしら。身体が鉛のように重いですわ……」
新子はふらつく足取りを必死に堪えながら、受付を通り過ぎ、奥へと続く廊下を進んだ。周囲に人の気配はない。受付の女性すら姿を見せないのは、すでに空間全体が神代の支配下に置かれている証拠だ。
廊下の突き当たりにある、重厚なオーク材の扉。
そこから、すすり泣くような女性の声が微かに漏れ聞こえてきた。
「希海先輩……!」
新子は扉のノブを掴み、勢いよく押し開けた。
広々としたカウンセリングルーム。
部屋の壁一面には重厚な本棚が並び、中央には高級な革張りのカウチソファが置かれている。
そのソファに、友枝希海が力なく横たわっていた。彼女の瞳は虚ろで焦点が合っておらず、頬には一筋の涙が伝い落ちている。
「おや。予約のないお客様ですね。……それにしても、随分と可愛らしいお嬢さんだ」
部屋の奥にあるデスクから、一人の男が立ち上がった。
彼が神代零だった。
年齢は三十代半ばだろうか。仕立ての良いスーツを身に纏い、柔和で優しげな顔立ちをしている。しかし、彼の瞳の奥には、すべてを凍りつかせるような底知れぬ冷酷さと狂気が渦巻いていた。
そして何より、新子の『霊視』ははっきりと捉えていた。神代の背後に、天井まで届くほどの巨大で禍々(まがまが)しい黒い靄――中級悪魔が、彼と完全に同化するようにへばりついているのを。
「あなたが神代零ですわね。……随分と悪趣味な香りを焚き染めていますこと」
新子は悪寒を堪えながら、希海と神代の間に立ち塞がるように進み出た。
「希海先輩に何をしましたの! 彼女はこんな虚ろな目をするような人ではありませんわ!」
「私は何もしていませんよ、菱倉新子さん。彼女は自らの意志でここへ来て、自らの心の内にある『本当の願い』に気づいただけです」
神代はゆっくりと歩み寄り、甘く、鼓膜に直接響くようなバリトンボイスで囁いた。
「彼女はね、いつも他人の顔色を窺い、優秀な後輩であるあなたたちに嫉妬し、自分自身の存在価値を見失っていた。……私はただ、彼女のその苦しみを解放してあげただけなのです。現世という名の重い鎖からね」
「詭弁ですわ! あなたは彼女の心の弱さに付け込み、その悪意を増幅させて操っているだけでしょう! 背中の薄汚い寄生虫と一緒にね!」
新子は右手を前に突き出し、杖を召喚しようとした。
しかし。
空間に微かな紫色の光の粒子が舞っただけで、鈍色の杖は実体化することなく霧散してしまった。
「なっ……!?」
「無駄ですよ。この部屋の白檀の香りは、特別製ですから。あなたのような『向こう側の存在』が、ここで力を振るうことはできません」
神代が不敵な笑みを深めた。
彼は、新子が冥界の存在であることをすでに気づいていたのだ。中級悪魔と同化している彼は、人間の限界を超えた知覚能力を得ている。
「くっ……。異能が使えなくとも、あなたのような三流の心理士など、私が直接叩き伏せてご覧に入れますわ!」
新子は令嬢の仮面を脱ぎ捨て、神代に向かって飛びかかろうとした。
しかし、神代が手にした銀色の懐中時計を、新子の目の前でゆっくりと揺らした瞬間。
「眠りなさい。あなたの魂は、あまりにも重い使命に縛られすぎている」
神代の甘い声が、白檀の香りと共に新子の脳内に直接響き渡った。
「あ……」
新子の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
足の力が抜け、その場に膝をついてしまう。思考が白い霧に包まれ、強烈な眠気と虚無感が全身を支配していく。
『そう……あなたは本当は、奪衣婆なんていうシステムに縛られたくなかった。誰かに愛され、普通の女の子として生きたかったのだろう? だが、現実は残酷だ。愛する者たちを騙し、孤独に戦い続けなければならない。……なら、いっそすべてを手放してしまえばいい』
悪魔のノイズ混じりの囁きが、神代の声と重なって新子の心を侵食していく。
(違う……私は、自分の意志で……この世界を……)
新子は必死に抗おうとしたが、身体は指一本動かすことができない。白檀の香りが彼女の霊力を奪い、悪魔の催眠が彼女の心の隙間――油江や真喜への想いという『愛』のバグを容赦なく抉ってくる。
「さあ、友枝希海さん。あなたはもう、誰とも比べられることのない、完全な自由を手に入れるのです。あの窓を開けて、鳥のように羽ばたきなさい」
神代が指を鳴らすと、ソファに横たわっていた希海が、まるで操り人形のようにフラフラと立ち上がった。彼女の視線は、部屋の奥にある大きなガラス窓へと向けられている。ここは洋館の三階だ。落ちればただでは済まない。
「だめ……先輩、行かないで……!」
新子は床に這いつくばったまま、手を伸ばした。しかし、声は掠れ、希海に届かない。
希海が窓の鍵に手をかけ、ゆっくりとガラス戸を開け放った。冷たい冬の風が部屋に吹き込み、カーテンが激しく揺れる。
神代は勝ち誇ったように新子を見下ろし、狂気の笑みを浮かべた。
「これでおしまいです。彼女の絶望の魂は、私が美味しくいただきましょう」
新子の瞳から、悔しさの涙が一滴こぼれ落ちた。
何もできない。このままでは、先輩の命が、悪魔の餌食になってしまう。
希海が窓枠に足をかけ、その身体が宙へと投げ出されようとした、まさにその瞬間だった。
ガァァァンッ!!
部屋の頑丈なオーク材の扉が、蝶番ごと破壊され、凄まじい音を立てて吹っ飛んだ。
土煙と木片が舞う中、静まり返ったカウンセリングルームに、重く、規則的な革靴の足音が響き渡る。
「……何者だ!?」
神代が驚愕して振り向いた。
そこには、一人の長身の男が立っていた。
漆黒のスーツを隙なく着こなし、肌は死人のように青白く、感情の起伏を一切感じさせない氷のような瞳をしている。
彼の存在自体が、この部屋に充満していた白檀の香りを完全に圧倒するほどの、圧倒的で絶対的な『死の気配』を放っていた。
「……お迎えに上がりました、お嬢様」
男は、床に倒れ伏している新子を一瞥すると、感情のない無機質な声で淡々と告げた。
その声を聞いた瞬間、新子の脳裏にかけられていた悪魔の催眠が、ガラスが砕け散るように一瞬で解け去った。
「あなたは……まさか……」
新子は目を見開き、その男の顔を見上げた。
冥界の底で何度も顔を合わせたことがある。閻魔大王直属の最も冷酷な死神。
「土出真羽人と申します。本日より、菱倉剛蔵様の命により、新子お嬢様の専属ボディガードを務めさせていただきます」
男――死神マウトは、恭しく一礼すると、鋭い視線を窓際の希海と神代へと向けた。
絶対的な死の執行者であり、新子の新たな「寡黙な盾」。
彼の乱入により、絶体絶命の窮地は、予測不能な混沌へと劇的に反転しようとしていた。
X(Twitter)でも連載しています。
https://x.com/TakumiFuji2025
魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




