犯罪心理学研究室の新たな謎㈡
傲慢な悪魔の嘘、天秤で丸裸にしますわ!元・奪衣婆令嬢の華麗なる無双劇
「心を操る、ですか?」
新子は、油江が差し出した黒いファイルの一ページ目をめくりながら、その一文をなぞった。
そこには、ここ数週間の間に横浜市内で発生した、三つの奇妙な事件の概要が実に細かく記録されていた。
一つ目は、大手銀行に勤める至って平凡で真面目なベテラン行員が、ある日突然、顧客の預金口座から数千万円という巨額の資金を横領し、そのまま行方をくらまそうとした事件。
二つ目は、普段は大人しく家庭的だと評判だった主婦が、深夜の住宅街で突然狂暴化し、見ず知らずの通行人に対してカッターナイフで切りかかったという突発的な傷害事件。
そして三つ目は、一流大学に通うエリート学生が、自らのスマートフォンのデータをすべて消去した上で、ビルの屋上から飛び降りようとした自殺未遂事件だった。
年齢も、性別も、社会的立場も全く異なる三人の加害者たち。しかし、警察の取り調べに対する彼らの供述には、背筋が凍りつくような不気味な共通点が存在していた。
『気がついたら、金庫を開けていた。自分の意志ではなく、頭の中で誰かの優しい声が響いていたんだ』
『あの夜、急に世界がセピア色に見えて、頭の奥で時計の針がチクタクと鳴る音が聞こえた。気がついたら、手に刃物を握りしめていたの』
『死にたくなんてなかった。でも、スマートフォンの画面を見つめていたら、男の声が聞こえて、身体が勝手に動いて屋上の柵を乗り越えていたんだ』
加害者たちは一様に、犯行当時の記憶が曖昧であり、まるで何者かに強い暗示をかけられていたかのような証言を繰り返しているという。
「……ねえ、油江教授。これって、ただの集団ヒステリーか何かなんじゃないのか? 最近のニュースじゃ、トクリュウだの闇バイトだので、SNSを使って人間をマインドコントロールする手口が流行ってるって言うだろ?」
真喜が新子の肩越しにファイルを覗き込みながら、不満げに眉をひそめて言った。彼は新子の身体に少しでも近づこうと、さりげなく距離を詰めてきている。
「君のその短絡的な脳細胞にしては、現代の犯罪トレンドをよく勉強していると褒めてあげたいところだね、真喜くん」
油江は眼鏡の奥の瞳を冷酷に細め、ふっと鼻で笑った。
「だが、今回のケースはそんな生易しいものではない。闇バイトなどのマインドコントロールは、金銭的な困窮や孤立といった『人間の弱み』に付け込み、時間をかけて徐々に倫理観を麻痺させていくものだ。しかし、この三人に共通しているのは、犯行の直前まで何一つの精神的な予兆も、生活の破綻もなかったという点にある」
油江は立ち上がり、研究室の壁に貼られた横浜市の地図へと歩み寄った。そこには、三つの事件が発生した場所に、赤いピンが整然と突き立てられている。
「彼らは、特定の『誰か』と接触した直後、まるで脳のシステムを強制的に書き換えられたかのように、一瞬にして犯罪のストッパーを破壊されているんだ。……犯罪心理学者として断言しよう。これは高度な心理誘導、あるいは、極めて強力な『催眠術』によるマインドコントロールの可能性がある」
「催眠術だぁ!? そんなテレビのショーみたいなオカルト、本当にあんな真面目な人間が一瞬でかかっちまうもんなのかよ?」
真喜が信じられないといった様子で声を荒らげた。
「人間の脳というものは、君が思っている以上に脆弱で、不完全なシステムなんだよ。特定の周波数の声、視覚的な暗示、そして相手の精神のディフェンスを一瞬で無力化する言葉の鍵……。それらを完璧に組み合わせれば、人間の理性を一時的にハッキングすることなど、不可能ではないのさ」
油江はそう言うと、新子の前に戻り、その白い顎を細い指先でそっと持ち上げた。彼の冷たい視線が、新子の瞳の奥へと深く突き刺さる。
「そしてね、新子。この三人の被害者……いや、加害者たちが、事件を起こす直前に共通して訪れていた場所が判明したんだ。……それが、横浜の元町にある、完全紹介制のメンタルクリニックだ」
「メンタルクリニック……。そこを営んでいる心理士が、怪しいということですのね?」
新子は油江の手をツンと振り払いながらも、その言葉に全神経を集中させた。
「その通り。彼の名は、神代零。現世では『奇跡の心理カウンセラー』として政財界の大物からも絶大な信頼を得ている高名な心理士だが……。彼のカウンセリングを受けた人間は、一様に彼の『声』に魅了され、自らの最も深い秘密を自白してしまうという噂がある」
油江の言葉を聞きながら、新子は密かに、スカートのポケットの中にある悪魔狩人の執行規定を思い返していた。
第一条、標的の限定と人間の業への不干渉。
もし、この神代という心理士が、単に人間の天才的な技術を使って犯罪を犯しているだけならば、新子たち悪魔狩人は一切干渉してはならない。それは人間の警察が裁くべき「人間の業」だからだ。
しかし。
新子がファイルの中にある、神代クリニックのパンフレットの写真を見つめた、その瞬間だった。
写真に写る、美しい微笑みを浮かべた神代という男の背後に、人間の目には決して見えない、あの吐き気を催すような甘く腐った『悪魔の腐臭』が、微かな残穢として漂っているのを、新子の『霊視』の能力が確かに捉えた。
(……間違いないわ。この心理士の背後には、人間の弱さを餌にする中級以上の悪魔が潜んでいる。彼が人々の理性のストッパーを外して凶行に走らせているのは、悪魔の仕業ですわ!)
新子の瞳の奥に、元・奪衣婆としての冷徹な光がハッキリと灯った。これは、悪魔狩人として見過ごすわけにはいかない重大なバグだ。
「おいおい、油江教授! 新子に変なファイルを読ませて、怖がらせるんじゃねえよ! そんな怪しい心理士だか催眠術師だか知らねえが、新子に近づく奴がいたら、俺がこの拳で全員ぶっ飛ばしてやるからな!」
真喜が新子の前に立ちはだかり、自らの太い腕を誇示するようにグッと拳を握りしめた。彼の新子を守りたいという想いは本物であり、その純度百パーセントの熱量が、研究室の重苦しい空気を一気に吹き飛ばしていく。
「君のその野蛮な怪力だけでは、目に見えない心の刃を防ぐことはできないよ、真喜くん。……新子。君は、私と一緒にこの事件の謎を解き明かしたいとは思わないかい? 君のその、常人離れした直感と鋭い洞察力があれば、この神代という男の化けの皮を剥ぎ取ることができるはずだ」
油江は真喜を無視し、新子に向かって優雅に手を差し伸べた。
彼自身の知的好奇心と、新子を自らの研究室(檻)に繋ぎ止めておきたいという深い独占欲。二人のイケメンが、それぞれの方法で新子に対して、あまりにも重く、そして甘いアプローチを仕掛けてきている。
「……お二人とも、少し落ち着きなさいな。私はただの、朱鳥女子大学のしがない女子大生ですのよ?」
新子はフンと鼻を鳴らし、立ち上がってトートバッグを肩にかけた。
「教授、美味しいマカロンと紅茶はごちそうさまでしたわ。事件のお話も大変興味深かったですけれど、私はこれから、夕子と駅前のカフェでパンケーキを食べるという、非常に重要な『エネルギー補給』の任務がありますの。失礼いたしますわ」
新子は完璧な令嬢の所作で一礼すると、油江の包囲網をすり抜け、呆然とする真喜の手を引いて、足早に研究室を後にした。
「あ、おい! 新子、待てよ! パンケーキ、俺も一緒に行くからな!」
真喜が慌てて後を追いかけていく。
一人残された研究室で、油江はローテーブルの上のティーカップを見つめながら、ふっと口角を怪しく吊り上げた。
「逃げるねえ、エバ。……だが、君がどれだけ一般人の仮面を被ろうとも、その瞳の奥にある『獲物を狙う執行官の光』を、私は見逃さないよ。……神代零のクリニック、君なら必ず動くはずだ」
旧館の廊下を歩きながら、新子はポケットの中でスマートフォンの画面を起動させた。
セトから先ほど届いた、悪魔狩人の緊急連絡。
『エバ、元町エリアで悪魔の活動が活発化している。至急、中華飯店「鳳凰」へ集結せよ』
(神代零……。人間の心をオモチャにする傲慢な悪魔め。元・奪衣婆の名にかけて、その薄汚い思念の皮、私が一枚残らず丸裸にして差し上げますわ!)
新子は真喜の騒がしい声を背中で聞きながら、キャンパスの出口へと急いだ。
平和な日常のすぐ裏側で、心を操る影との、スリリングで華麗なる事件簿の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




