犯罪心理学研究室の新たな謎㈠
傲慢な悪魔の嘘、天秤で丸裸にしますわ!元・奪衣婆令嬢の華麗なる無双劇
朱鳥女子大学の旧館最上階へと続く階段は、昼なお薄暗く、踏みしめるたびに微かな歴史の軋みを立てる。
新子は、お気に入りのメゾンブランドの黒いローファーの音を響かせながら、一歩一歩、確かな足取りでその階段を上っていた。手元には、講義のレジュメが入った小ぶりのトートバッグが握られている。
先ほどキャンパスの片隅で、人間の心に寄生していた下級悪魔の思念体を「剥ぎ取った」ばかりだ。
その残穢を完全に消し去り、可憐なお嬢様女子大生としての仮面を完璧に整えてはいるものの、新子の胸の奥には、未だに冷徹な執行官としての緊張感が微かに燻ていた。
何より、これから向かう場所の主が問題なのだ。
若き天才犯罪心理学教授、油江颯。
彼は小嶽親子との激闘を経て、新子の正体が三途の川のほとりで亡者の衣を剥ぎ取っていた冥界の住人――「元・奪衣婆のエバ」であることをすでに知っている。
超常的な存在を前にしてもなお、自らの論理と観察眼でその本質を見極めようとした、常軌を逸した知性の持ち主。彼を騙し通すことは、下級悪魔を十匹狩るよりもはるかに骨が折れる。
(ですが、私が冥界に連れ戻されずに現世へ残留し、ましてや天界の不可侵条約を破る悪魔を狩る『悪魔狩人』に任命されたことだけは、絶対に知られてはなりませんわ。執行規定の第二条――存在の完全秘匿は、何があっても死守しなければならない鉄の掟ですからね)
新子は研究室の重厚なマホガニーの扉の前で立ち止まり、ふう、と小さく息を吐いてから、完璧な令嬢の微笑みを浮かべてノックをした。
「失礼いたしますわ、教授。お約束通り、お邪魔いたします」
扉を開けると、そこはまるで外界の喧騒から切り離されたかのような、静謐で知的な空間だった。
壁一面に整然と並ぶ膨大な心理学や法医学の専門書。部屋の中央には、美しく磨き上げられたアンティークのローテーブルが置かれ、そこにはすでに、新子の好物である有名店のピスタチオのマカロンと、気品ある香りを漂わせるダージリンのティーカップが二つ、用意されていた。
「待っていたよ、エバ。……いや、キャンパス内では『新子』と呼ぶべきだったかな?」
デスクの奥から立ち上がった油江は、仕立ての良いスリーピーススーツのポケットに片手を入れ、眼鏡の奥の鋭い瞳で新子を出迎えた。その口元には、すべてを見透かすような、優雅で危険な微笑みが浮かんでいる。
「どちらでも構いませんわ。ですが、私の可愛い親友や、耳の痛い幼なじみが近くにいるときは、しっかりと新子と呼んでいただかないと困りますことよ」
新子はツンと顎を上げ、勧められるよりも前にソファへと腰を下ろした。そして、お行儀良く膝の上で手を揃えながらも、視線はすでに皿の上のマカロンへと釘付けになっていた。
「相変わらず、現世の甘味に対する執着心だけは、変わらないね。……いや、むしろ器に同調したことで、その欲求は肥大化しているようにすら見える」
油江はローテーブルを挟んだ対面のソファではなく、あえて新子のすぐ隣のスペースへと、音もなく滑り込むように座った。
一人用のソファではないとはいえ、あまりにも近すぎる距離。油江の長い脚が新子のウールのスカートに微かに触れ、彼が纏うほろ苦いブラックコーヒーの香りが、ダージリンの華やかな香りを一瞬で支配する。
「き、教授……? お座りになる位置が、少々不適切ではなくて?」
新子は咄嗟に身を引こうとしたが、油江は逃げ道を塞ぐように、ソファの背もたれに長い腕を回した。まるで、新子を自らの胸の内に閉じ込めるかのような、支配的な構えだ。
「不適切? そんなことはないさ。君の微細な表情の変化、瞳孔の開き具合、そして心拍の乱れを正確にプロファイリングするには、この距離が一番合理的なんだ。……ほら、現に今、君の白い首筋が、ほんのりと赤く染まり始めている」
油江は細く美しい指先を伸ばし、新子の頬にかかった黒髪を、優しく耳の後ろへと掻き上げた。彼の冷たい指先が首筋の肌に触れた瞬間、新子の心臓はドクン、と大きな音を立てて跳ね上がった。
「っ……! これは、その……人間の肉体が持つ、自律神経の不随意な反射ですわ! 私の魂が動揺しているわけではありませんことよ!」
新子は顔を真っ赤にしながら、誤魔化すようにマカロンを一つ掴んで口に放り込んだ。ピスタチオの濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、暴走しそうになっていた「恋のバグ」が、一時的にその甘美な充足感によって鎮められていく。
「ふっ……。言い訳の仕方も随分と人間らしく、そして愛らしくなったものだ。君が私の元へ戻るために、どれほどの理屈を地獄の王に並べ立てたのかは知らないが……。私は君を、もう二度とあの冷たい世界へ返すつもりはないからね」
油江の瞳の奥に、狂気にも似た深い独占欲がギラリと光った。
新子はマカロンを咀嚼しながら、心の中で冷や汗をかいていた。油江は、新子が「自分の意志で冥界の掟を破り、現世に残留した」と解釈している。それがまさか、天界と冥界のパワーバランスを揺るがす「悪魔」を狩るための、血生臭い特務を背負った結果だとは、夢にも思っていないのだ。
(まさか、こんな最凶のイケメンにこれほど執着されるなんて、奪衣婆時代の私に教えたら、絶対に嘘だと一蹴しますわね……)
新子が紅茶を啜って一息ついた、その時だった。
バァァァンッ!!
研究室の頑丈な扉が、まるで台風にでも見舞われたかのような凄まじい音を立てて、勢いよく内側へと蹴り開けられた。
「新子ォォォッ!! 油江教授の研究室にいるって夕子から聞いて、飛んできたぞ!」
大声を張り上げながら室内に乱入してきたのは、案の定、隣の玄武大学の太田真喜だった。彼は厚手のライダースジャケットを羽織り、額に汗を浮かべながら、完全に不審者そのものの勢いで新子の元へと突進してきた。
「ちょっと待ちなさい、真喜さん! ここは大学の教授個人の研究室ですのよ! ノックもせずに押し入るなんて、野蛮にも程がありますわ!」
新子が立ち上がって叱りつけたが、真喜はそんなお小言など全く耳に入っていない様子で、油江と新子の「近すぎる距離」を鋭く凝視した。
「油江教授! あんた、どさくさに紛れて新子の隣に座ってんじゃねえよ! 新子は、俺が一直線に愛してる、俺の大事な幼なじみなんだからな!」
真喜は大型犬が歯を剥き出して威嚇するかのように、油江を激しく睨みつけた。
真喜もまた、小嶽親子の事件を通じて、新子が人間の新子ではなく、冥界から来たエバであることを知っている。だが、彼は「相手が地獄の鬼だろうが関係ねえ、俺は新子を愛してる!」と、その不器用で純度百パーセントの熱量を、毎日新子にぶつけ続けているのだ。
「やれやれ、相変わらず騒がしいゴールデンレトリバーくんだね。ここは朱鳥女子大学の研究室だ。部外者、それもこれほど知性の感じられない野良犬を立ち入らせた覚えはないのだがね」
油江は全く動じることなく、優雅に紅茶のカップを傾け、冷徹な皮肉を言い放った。
「誰が野良犬だ! 新子、こいつの言うことなんて聞かなくていいからな! ほら、美味いクレープ屋を見つけたんだ、一緒に行こうぜ!」
真喜は新子の細い手首を優しく、しかし確実に掴み、油江の包囲網から引き剥がそうとした。
「真喜さん、引っ張らないでくださいませ! 私は今、教授と大事なお話をしているところ……」
新子が真喜の手を振り払おうとした、その瞬間だった。
油江が、デスクの上に置かれていた一冊の黒いファイルを、重々しい音を立ててローテーブルの上に放り出した。
「真喜くん。君がその単細胞な脳みそで新子を連れ回したいのなら、勝手にするがいい。……だがね、新子。君は、最近この横浜市内で起きている『奇妙な事件』について、興味はないかな?」
油江の声から、先ほどまでの甘い独占欲が消え去り、冷徹な犯罪心理学者としての「仕事の顔」へと切り替わった。
新子は、真喜に掴まれた手首の力を緩め、ローテーブルの上の黒いファイルへと視線を落とした。
「奇妙な事件、ですか?」
「そうだ。……表向きは、ただの連続詐欺事件や、突発的な暴行事件として処理されている。だがね、被害者や加害者たちの心理データを解析していくと、ある共通した『異常な心理ストッパーの破壊』が見られるんだ。……まるで、何者かによって、心を完全に操られているかのようにね」
油江の眼鏡の奥の瞳が、狩人のように鋭く光った。
その言葉を聞いた瞬間、新子の背筋に、ピリッとした冷たい緊張感が走った。
(心を操る……。まさか、中級以上の『悪魔』の仕業では……!?)
新子は、油江と真喜の二人のイケメンに挟まれながら、平和な日常のすぐ裏側に、新たなる地獄の深淵が口を開け始めていることを、本能的に察知していた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




