トクリュウの影㈠
傲慢な悪魔の嘘、天秤で丸裸にしますわ!元・奪衣婆令嬢の華麗なる無双劇
豪華客船『クイーン・オブ・朱鳥』での狂宴が海上の泡と消え、朱鳥女子大学を裏から支配していた巨大な闇が白日の下に晒されてから数週間。
学長や理事長をはじめとする大学の上層部は総入れ替えとなり、学生会による恐怖政治も完全に解体された。忌部薫子の絶対王政は過去のものとなり、キャンパスには真の自由と、女子大生らしい華やかで平和な日常が戻っていた。
しかし、元・奪衣婆であるエバこと菱倉新子の心には、晴れきらない薄暗い雲が居座り続けていた。
あの夜、超高位悪魔が消滅の間際に残した呪詛の言葉。
『我らが王、サマエル様が……』
堕天使であり、悪魔の王と呼ばれる存在。それが現世のどこかに潜み、次なる獲物を狙っていることは明白だった。
「……はぁ。せっかくの最高級和栗のモンブランが、少しだけ苦く感じてしまいますわ」
大学の中庭に面したカフェテラス。
新子は白磁の皿に載せられた芸術的なモンブランを銀のフォークで崩しながら、小さくため息をついた。
周囲には、楽しげに談笑する女子大生たちの声が溢れている。平和な光景だが、新子の『霊視』の能力は、その平和の裏側で、街の空気が少しずつ、しかし確実に淀み始めているのを捉えていた。
「お嬢様。味覚センサーへの異常な苦味のフィードバックは、精神的ストレスに起因する消化器系の機能低下が原因と推測されます。当分の間、糖質および脂質の摂取を制限し、温かい白湯による胃腸の回復プログラムへの移行を強く推奨します」
背後から、一切の感情を持たない無機質な声が進言してきた。
漆黒のスーツ姿で直立不動の姿勢を崩さない死神ボディガード、土出真羽人である。
「結構ですわ、マウト。わたくしのストレスの原因は胃腸の不調ではなく、いつまで経っても尻尾を出さない臆病な悪魔の王への苛立ちですのよ。……それに、レディから美しいスイーツを取り上げようとするなんて、ボディガードとしての契約違反ですわ」
新子がツンと顎を上げて言い返すと、マウトは僅かに首を傾げた。
「私のプログラムに『スイーツの保護』という項目は存在しません。優先すべきはお嬢様の健康状態と生命維持のみです」
「本当に、可愛げというものが一ミリもありませんわね」
新子が呆れて紅茶に口をつけた、その時だった。
「新子ちゃん! ちょっと、これ見て!」
親友の大崎夕子が、血相を変えてテラス席へと駆け込んできた。彼女の手には、画面が明るく発光しているスマートフォンが握られている。
「どうしましたの、夕子。そんなに慌てて。レディたるもの、みだりに走っては……」
「走るなって言ってる場合じゃないの! これ、うちのサークルの後輩のアカウントなんだけど……!」
夕子が差し出したスマートフォンの画面を、新子は怪訝な顔で覗き込んだ。
それは、若者たちの間で流行している匿名のSNSアプリだった。画面には、後輩の女の子が投稿した短いメッセージと、それに返信された奇妙なダイレクトメッセージのスクリーンショットが表示されている。
『最近バイト減らされてお金ピンチ……。誰か割のいい短期バイト知らない?』
その後輩の何気ない呟きに対し、見知らぬ匿名アカウントから、こんなメッセージが届いていた。
『ホワイト案件あります。荷物を受け取って指定の場所に運ぶだけで、日給五万円。未経験歓迎、即日即金。詳しい話はシークレットチャットで』
「……ただの怪しいスパムメッセージではありませんの?」
新子が冷ややかに言うと、夕子は激しく首を横に振った。
「それが、このメッセージを受け取った後輩、昨日の夜から急に連絡が取れなくなっちゃって! 大学にも来てないし、アパートに行っても留守で……。最近ニュースでよくやってる『闇バイト』に巻き込まれちゃったんじゃないかって、すごく心配なの!」
闇バイト。
新子もその言葉には聞き覚えがあった。油江教授の犯罪心理学の講義でも、最近頻繁に取り上げられている現代特有の犯罪手口だ。
SNSを通じて『高収入』『ホワイト案件』といった甘い言葉で若者を誘い出し、匿名性の高い通信アプリで指示を出して、詐欺の受け子や強盗といった凶悪犯罪の実行犯に仕立て上げる。指示を出している黒幕たちは決して直接姿を現さず、使い捨ての駒として若者たちを消費していく。
警察組織は、こうした匿名の指示役によって流動的に結成される犯罪グループを『トクリュウ(匿名流動型犯罪グループ)』と呼んで警戒を強めていた。
「夕子。その後輩の女の子は、元々素行が悪かったり、多額の借金を抱えていたりしたのかしら?」
「ううん、全然! すごく真面目で、いつも大人しい子だよ。だからこそ、こんな怪しい誘いに乗るなんて信じられなくて……」
新子は目を細め、夕子の持つスマートフォンの画面をさらに深く覗き込んだ。
その瞬間、新子の背筋を冷たいものが駆け上がった。
スマートフォンの液晶画面の奥――その無機質なデジタルデータの配列の隙間から、あの教団や豪華客船で嗅いだのと同じ、悪魔特有の『甘く腐った匂い』が、微かな残穢となって立ち上っているのを、彼女の霊視が確かに捉えたのだ。
(まさか……。悪魔が、サイバー空間を介して直接人間の魂に干渉しているというの!?)
これまでは、神代零や忌部薫子といった『強力な欲望を持つ特定の人間』をホストとして実体化し、その周囲の人間を支配していくのが悪魔の常套手段だった。
しかし、もし悪魔の王サマエルが、SNSという巨大で匿名のネットワークそのものを『巨大な巣』として利用し始めているとしたら。
「……マウト。この画面から、霊的なエネルギーの漏出を感知できまして?」
新子が小声で尋ねると、マウトはスマートフォンの画面に顔を近づけ、氷のような瞳で無機質にスキャンした。
「肯定します。電子信号の波長に、極めて微弱ですが、現世の物理法則を逸脱した精神干渉エネルギーがエンコードされています。このメッセージを視認した対象者の前頭葉に、直接的な『強欲』と『怠惰』のバグを書き込むアルゴリズムと推測されます」
「つまり、ただの詐欺メッセージではなく、悪魔の『呪い』が添付されているということですわね……」
新子はギリッと奥歯を噛み締めた。
人間が抱く「手軽にお金が欲しい」という小さな金銭欲や、「楽をして稼ぎたい」という怠惰な心。それは誰もが持つ些細な感情だ。しかし、この悪魔のメッセージを見た瞬間、その小さな欲求は強制的に肥大化させられ、倫理のストッパーを完全に破壊されてしまうのだ。
「新子ちゃん……? 呪いって、どういうこと?」
夕子が不安そうに新子の顔を覗き込んだ。
「なんでもありませんわ、夕子。……その後輩の女の子のアパートの住所と、そのSNSのアカウント情報をすべてわたくしに送りなさい。菱倉家の情報網を使って、至急彼女の居場所を特定してみせますわ」
「本当!? ありがとう新子ちゃん、お願いね!」
夕子から情報を受け取ると、新子はすぐにモンブランの残りを優雅に、かつ迅速に平らげ、席を立ち上がった。
「行きますわよ、マウト。どうやら、臆病な王様は随分と現代的な隠れ蓑を見つけたようですわ」
「了承いたしました。お嬢様の移動ルートを確保します」
二人がカフェテラスを出ようとした、まさにその時。
新子のスマートフォンが、けたたましい着信音を鳴らした。
画面に表示されたのは、若き天才犯罪心理学教授、油江颯の名前だった。
「……嫌な予感がしますわね」
新子が通話ボタンを押すと、スピーカーの向こうから、油江の冷徹で、どこか楽しげな声が響いてきた。
『エバ。今すぐ私の研究室に来なさい。……君の好きそうな、極上の「狂気」のパズルが届いたよ』
「極上のパズル、ですって?」
『ああ。昨夜、横浜市内で三件の連続強盗事件が発生した。逮捕された実行犯たちは全員、互いに面識のない普通の若者たちだ。……そして彼らは皆、取り調べでこう供述している。
「スマートフォンの画面から、逆らえない声が聞こえた」とね』
油江の言葉に、新子の瞳に鋭い青い炎が宿った。
匿名流動型犯罪グループ『トクリュウ』の背後で糸を引く、見えざる悪魔の王。
電脳の海に潜む強大な闇を丸裸にするための、エバの新たなる闘いの幕が、今静かに切って落とされた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




