実践訓練と見えざる悪意㈠
傲慢な悪魔の嘘、天秤で丸裸にしますわ!元・奪衣婆令嬢の華麗なる無双劇
中華街の秘密の地下室で、血の滲むような実戦訓練と絶品の中華料理を堪能した翌日。
菱倉新子は、いつものように朱鳥女子大学のキャンパスを歩いていた。
冬の透き通った空気が、レンガ造りの伝統的な学舎を冷たく包み込んでいる。イチョウ並木はすっかり葉を落とし、冬の陽射しが学生たちの行き交う石畳に長い影を落としていた。
新子は、上質なキャメル色のウールコートに身を包み、背筋をピンと伸ばして歩く。その完璧なまでの令嬢の佇まいに、すれ違う学生たちは思わずため息をついて道を譲っていく。しかし、彼女の内心は、隣を歩く親友の言葉に完全に心を奪われていた。
「ねえねえ新子! 駅前に新しくできたカフェ、もうチェックした? そこの季節限定のイチゴとマスカルポーネのパンケーキが、もう絶品らしくて!」
親友の大崎夕子が、スマートフォンの画面を新子の顔の前に突き出しながら、興奮気味に捲し立てた。画面には、雪山のように高く盛られたクリームと、ルビーのように輝く大粒のイチゴが乗ったパンケーキの写真が光っている。
「まあ……! なんて芸術的な造形かしら。このクリームの質感、そしてイチゴの照り。見ただけで脳の快楽中枢が刺激されますわ!」
新子の瞳が、先ほどの令嬢の冷たさを完全に失い、キラキラと輝き始めた。
冥界のエリート執行官として、魂の重さを量り続けてきた彼女にとって、現世のスイーツはまさに禁断の果実である。肉体のエネルギー補給という名目のもと、彼女はすっかりこの人間界の甘味の虜になっていた。
「でしょでしょ! 今日の講義が終わったら、絶対に行こうよ! 私、もうお腹すいちゃって」
「ええ、もちろんお付き合いしますわ、夕子。午後からの犯罪心理学の講義を乗り切るための、立派なモチベーションになりますもの」
二人が楽しげに笑い合った、その時だった。
「おーい! 新子ォォォッ!!」
キャンパスの静寂を切り裂くような、図太く、そして遠慮というものを一切知らない大声が響き渡った。
声の主を探すまでもない。正門の方から、大型犬が尻尾を千切れんばかりに振って飼い主に駆け寄ってくるかのような猛烈な勢いで、一人の青年がこちらに向かって突進してくる。
「……また来ましたわね、あの猪突猛進男」
新子が呆れたようにため息をつくと、隣の夕子は「ふふっ」と楽しそうに口元を隠した。
青年の名は、太田真喜。隣接する玄武大学の学生であり、新子の幼なじみである彼は、事あるごとにこうして朱鳥女子大学のキャンパスに堂々と侵入してくるのだ。
「新子! 寒かっただろ! ほら、温かいカフェラテ買ってきたぞ!」
真喜は新子の目の前でピタリと止まり、息を切らせながら、両手で包み込むように大切に持っていた紙カップを差し出した。彼の大きな手から伝わる温もりが、冷たい冬の空気の中でほんのりと白い湯気を立てている。
「……真喜さん。あなたは自分の大学の講義はどうなっているの? ここは女子大ですのよ。あまり頻繁に出入りすると、警備員の方に不審者として捕まりますわよ」
新子はツンと顎を上げて冷たく言い放ちながらも、その手はしっかりと、真喜から差し出されたカフェラテを受け取っていた。
「そんなの気にするなよ! 俺の頭の中は、講義よりも新子のことでいっぱいなんだからさ! 新子が寒い思いをしてないか心配で、じっとしてられなかったんだ!」
真喜は屈託のない、眩しいほどの笑顔を向けた。その言葉に一切の裏表はなく、ただ純粋な新子への愛情だけで構成されている。
冥界の天使養成校で「個人的な感情(愛)は宇宙の調和を乱すノイズである」と徹底的に教え込まれてきた元・奪衣婆のエバにとって、真喜のこの無防備な感情の爆発は、あまりにも眩しく、そして毒のように甘かった。
「……馬鹿なことばかり言わないでくださいませ。でも、このカフェラテは、レディへの献上品としてありがたくいただいておきますわ」
新子は少しだけ顔を赤らめ、カフェラテを口に運んだ。ミルクの優しい甘さとエスプレッソの香りが、冷えた体を芯から温めてくれる。
その様子を見て、真喜は「よしっ!」と小さくガッツポーズをした。
「まったく、真喜くんは相変わらず新子に一直線だねえ。見てるこっちが照れちゃうよ」
夕子がからかうように言うと、真喜は「夕子もありがとな、いつも新子の傍にいてくれて!」と、なぜか保護者のような目線で感謝を述べた。
平和で、騒がしくて、愛おしい日常の光景。
新子はこのまま、彼らと共に温かい陽だまりの中を歩いていきたいと心から願っていた。
――しかし。
ふっと、冷たい北風がイチョウ並木を吹き抜けた瞬間。
新子の背筋に、氷の刃を滑らせたような絶対的な悪寒が走った。
「……っ」
新子の足が、ピタリと止まる。手にしたカフェラテの温もりが、急激に遠のいていくような感覚。
「どうした、新子? 気分でも悪いのか?」
真喜がすぐに異変に気づき、心配そうに顔を覗き込んできた。
新子は彼に悟られないよう、すぐに「なんでもありませんわ」と微笑みを返したが、その瞳の奥には、すでに冷徹な『奪衣婆』としての光が宿っていた。
(この匂い……間違いないわ)
それは、昨夜の中華飯店でセトが語っていた、悪魔の匂い。
鉄と灰が混じった冥界の香りとは違う、むせ返るような甘さと、何かが腐敗していくようなおぞましい悪意の悪臭だ。
新子は、真喜と夕子を背中で庇うように立ち位置をわずかに変え、視線だけを鋭く巡らせた。
匂いの出所は、キャンパスの奥、大講堂へと続く石畳の道の先だった。
そこには、数人の女子学生のグループが歩いている。表向きは楽しそうに談笑しているように見えるが、新子の『霊視』の能力は、その中の一人の頭上に、どんぐりほどの大きさの「黒い靄」がへばりついているのを確実にとらえていた。
(あの子……。表面上は笑っているけれど、心の中では友人の持ち物や容姿に対して、ドロドロの嫉妬を煮えたぎらせているのね)
そして、その「嫉妬」という負の感情を餌にして、黒い靄――下級の悪魔が、彼女の耳元で甘く危険な囁きを繰り返しているのだ。
『そうよ、あの子ばかりずるい。あなたが持っていないものを、あの子はすべて持っている。奪いなさい、引きずり下ろしなさい……』
まだ具体的な犯罪行為には至っていない、ごく初期の憑依段階。しかし、このまま放っておけば、悪魔は彼女の心を完全に支配し、倫理のストッパーを外して、悲劇のパズルを完成させるだろう。
「……新子?」
夕子がいぶかしげに新子の袖を引いた。
「ごめんなさい、夕子、真喜さん。私、少し用事を思い出しましたわ。先に行っていてくださる?」
「えっ、用事って? 俺も一緒に行くぞ!」
真喜がすかさず食い下がったが、新子は彼に向かって、有無を言わさぬ令嬢の冷たい微笑みを向けた。
「レディには、殿方には見せられない私用というものがあるのです。大人しく待っていてくださいませ」
「うっ……わかったよ。気をつけてな!」
真喜の大型犬のようなシュンとした顔に少しだけ胸が痛んだが、悪魔狩人としての掟の第一は「存在の完全秘匿」である。一般人をこの領域に巻き込むわけにはいかない。
新子は踵を返し、黒い靄がへばりついた女子学生のグループの後を、音もなく追い始めた。
平和な学舎の裏側に潜む、見えざる悪意。
傲慢な悪魔の皮を剥ぎ取るための、エバの静かなる狩りが、今まさに始まろうとしていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




