暴かれた偽りの暗示㈡
傲慢な悪魔の嘘、天秤で丸裸にしますわ!元・奪衣婆令嬢の華麗なる無双劇
「心理的アプローチ、ですか? 教授ともあろうお方が、随分とオカルトめいた想像をなさるのですね」
新子はクスリと優雅に微笑み、ティーカップをそっとソーサーに置いた。
油江の異常なまでの探求心を逸らすには、中途半端な誤魔化しは通用しない。彼が最も愛する『論理と心理学』という土俵に引きずり込み、そこで完璧な理屈を組み立てて見せる必要があった。
「神代零が使っていたのは、古典的で陳腐な環境支配に過ぎませんわ。あの部屋に充満していた白檀の香りと、単調な時計の音。彼は視覚と嗅覚、聴覚を同時にジャックすることで、被害者たちの脳に『ここは安全で、自律神経を委ねても良い場所だ』という偽りのアンカーを打ち込んでいたのです」
「なるほど。そこまでは私も推測していたよ。だが、君はどうやってその強固なアンカーを引き抜いたんだ?」
「簡単なことですわ。彼の支配の根幹である『閉鎖空間の安全性』を、物理的に破壊して差し上げただけですの」
新子は視線を横に滑らせ、背後に直立するマウトを顎でしゃくった。
「そこの無骨なボディガードが、部屋の窓を粉々に粉砕しましたのよ。その瞬間、大量の冷気と外の騒音が流れ込み、白檀の香りは一瞬で霧散しましたわ。神代の催眠の城は、その急激な環境変化による『認知の不協和』に耐えきれず、完全に自壊したのです。私はただ、パニックに陥った彼の耳元で、『あなたの暗示は解けた。あなたが今まで犯してきた罪を思い出しなさい』と、最も効果的なタイミングで逆暗示を囁いただけですわ」
完璧な、論理的帰結。
悪魔の存在を一切介在させず、すべてを心理学と物理的なショックの相乗効果だとすり替えた、元・奪衣婆の華麗なる嘘であった。
油江は新子の説明を聞き終えると、数秒の沈黙の後、肩を震わせて低く笑い始めた。
「くくっ……はははは! 素晴らしい。実に素晴らしいよ、エバ。君は私の期待を全く裏切らない」
油江は歓喜に満ちた瞳で新子を見つめ、さらに距離を詰めようと身を乗り出した。彼の冷たい指先が、新子の頬に触れようとした、まさにその時だった。
「対象者による、護衛対象への規定距離侵犯を確認」
突如として、油江と新子の間に、漆黒の壁が立ち塞がった。
音もなく間に割り込んできたマウトが、油江の手首を鉄の万力のような正確さで掴み取っていた。マウトの氷のような瞳が、油江の知的な瞳と至近距離で交錯する。
「これ以上の接近は、お嬢様に対する明確な敵対行為と見なします。直ちに離れなさい」
「……ほう。随分と躾の行き届いた番犬だ。だがね、私は彼女と有意義な学術的対話をしている最中なのだが?」
油江は手首を掴まれたまま、全く怯むことなく不敵な笑みを浮かべた。
しかし、マウトの無機質な表情はピクリとも動かない。
「私の判断基準に『学術的対話』という項目は存在しません。存在するのは、お嬢様への危害予測パーセンテージのみです。現在、あなたの行動はレッドゾーンに到達しつつあります」
「……面白い男だ。君のその瞳、まるで一切の感情をフォーマットされた殺人機械のようだよ」
二人の間に、目に見えない火花が激しく散る。
天才的な頭脳を持つ最凶の犯罪心理学者と、感情のバグを一切持たない絶対的な死神。両者の対峙は、まさに一触即発の危険な空気を孕んでいた。
「もう、二人ともいい加減になさって! 私のために争うのはやめてくださいませ!」
新子が立ち上がり、パンッと両手を叩いてその場を制した。
「マウト、手を離しなさい。教授はただの、少し距離感のおかしい変人なだけですわ。私に危害を加えることはありません」
「……お嬢様の命令とあれば。対象者の無力化を解除します」
マウトがパッと手を離すと、油江はやれやれと肩をすくめ、手首を軽くさすった。
「変人とは心外だな。私はただ、君という未知のパズルを解き明かしたいだけだというのに。……だが、今回の神代の事件に関しては、君のその見事な『心理的アプローチ』の勝利だということにしておこう」
油江は引き下がる素振りを見せながらも、その言葉の端々には「まだ君のすべてを信じたわけではない」という鋭い棘が隠されていた。
「ご理解いただけて何よりですわ。では教授、私は次の講義がありますので、これにて失礼いたします」
新子は優雅に一礼し、マウトを引き連れて研究室の扉へと向かった。
「エバ」
扉に手をかけた新子の背中に、油江の声が静かに響いた。
「君がどれほど巧妙な嘘で自分を隠そうとも、現世の闇は君を放ってはおかない。……何か手に負えない事態に直面した時は、いつでもこの研究室へ逃げ込んでおいで。私が君を、完璧に匿ってあげるからね」
「……ご忠告、感謝いたしますわ。ですが、私には頼もしい『盾』がおりますので、お構いなく」
新子は振り返らずにそう言い残し、研究室を後にした。
廊下を歩きながら、新子はふう、と大きく息を吐き出した。
悪魔との死闘よりも、油江教授の知的な追及を躱すことの方が、はるかに精神的なエネルギーを消耗する。
「お嬢様。心拍数の微細な上昇と、発汗を確認しました。精神的ストレスが規定値を超えています。甘味による速やかな回復を推奨いたします」
背後を歩くマウトが、淡々と進言してきた。
「あなたの言う通りですわね、マウト。……このまま大学の売店で、一番高いチョコレートパフェでも買って帰ることにしますわ」
新子は苦笑しながら、冬の冷たい空気が流れ込む廊下を歩き続けた。
彼女の華麗なる暗躍により、神代零と同化した悪魔は浄化され、心を操る影の事件は完全に幕を閉じた。
執行規定を守り抜き、誰にも真実を知られることなく、現世の平和と親友の命を守り抜いたのだ。元・奪衣婆のエバにとって、それは悪魔狩人としての初めての完全勝利であった。
しかし。
冥界のシステムから弾き出され、人間の負の感情に寄生する悪魔たちは、神代に憑いていた一体だけではない。人間の果てしない欲望がある限り、彼らは何度でも現世に湧き出してくるのだ。
同じ頃。
横浜市の郊外にある、人気のない廃工場の地下室。
そこには、数十人の男女が等間隔で正座をし、薄暗いロウソクの火に向かって、一心不乱に祈りを捧げていた。
「おお……大いなる救済の光よ。我々の汚れなき魂を、この腐った現世からお救いください……」
「すべては、教祖様の御心のままに……。我らが教団『浄化の光』に、永遠の平穏を……」
信者たちの目は一様に虚ろでありながら、狂信的な熱を帯びている。彼らは自らの全財産を教団に寄付し、家族や友人との縁を断ち切り、ただひたすらに見えざる「救済」にすがりついていた。
その集団の奥、一段高くなった祭壇の上に、一人の男が立っていた。
純白の法衣を身に纏い、慈愛に満ちた笑みを浮かべるその男の背後には、神代のクリニックで新子が浄化したものとは比べ物にならないほど巨大で、ドロドロに腐敗した黒い靄――高位の悪魔が、嬉々(きき)として蠢いていた。
『素晴らしい……。人間の不安、絶望、そして救いを求める脆い心。これほど美味なる魂の御馳走は他にない。さあ、もっと祈れ、もっと絶望しろ。お前たちの魂を、私が残らず喰らってやろう……!』
悪魔のノイズ混じりの笑い声が、信者たちの祈りの声と不気味に混ざり合う。
偽りの救済という名の甘い蜜に群がる、暴走する信仰。
平和な日常のすぐ裏側で、次なる破滅の罠が、すでに深く静かに進行し始めていた。
エバの悪魔狩人としての真の闘いは、まだ始まったばかりである。
X(Twitter)でも連載しています。
https://x.com/TakumiFuji2025
魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




