雨宮智について その3
これがWhy。
つまりは動機。
そして次にもう一つ。続いて中指の背筋を正す。
「菊野くんは入室後、僕らと挨拶を交わした次の瞬間、僕らの表情について言及しましたね。その時、一緒に何て言ったか覚えていますか?」
「はい! 確か、心地いい天気って言ってた‼︎」
当人ではなく、クローバーの少女がノリノリで手を挙げ僕に応えた。
ブロンドの少年は動じず、眼前の光景を微笑ましそうに眺めている。
「そうですね。もっと詳しく言うなら、気持ちのいい天気の朝と発言していました。このことから室内ではなく外にいたのではないかと考えられます。外の庭で全身に朝日の光を浴びたからこそ、自然と溢れた言葉だったのではないでしょうか」
しかし、これだけでは彼が外にいたということの証明にはならない。ただ、その可能が生まれたというだけに過ぎないのだ。
もちろんそれは菊野くんだってわかっている。だから、そのことについて彼は目ざとく指摘する。
「ですが、外に出ずとも屋内で、それこそ窓辺に立ってそう感じた、なんて可能性もあるのではないでしょうか?」
「ええ、その通りです。ですが、これはあくまでも推理全体の補強のための布石に過ぎません。肝心なのは最後の三つ目、これが核心です」
三本目の指を立て心の中の僕が笑う。
二人のうちどちらかの息を呑んだ音が耳朶を撫でた。
「突然ですが菊野くん、僕から見て右側のズボンのポケットに仕舞われているハンカチを見せてください」
「はい、喜んで」
嬉々として、指示通りにポケットからハンカチが取り出された。
彼の手のひらにおさまるハンカチの表面は湿っており、未だ乾く気配は見られない。
ほう、と横から感心の声が立つ。
「ついさっき使われていたみたいね」
「まさしく……。外から伺えるほどズボンのポケットの生地も水分を含んでる様子でしたから……。常に一定の清潔感を保っている菊野くんのことです、君は外から屋内に入る際は必ず手を洗いますよね。ましてや庭の花壇でお花の世話をして来たんです。爪の間に土や小石が挟まっていないともかぎりません。君は絶対にそれを見逃さない」
「まさにその通りです雨宮くん。もちろん私は花々を育てるのが大好きですが、それと同じくらい綺麗好きでもあります。植物と向き合っている時はそんなこと露ほども気にしませんが、それとこれとは全く別の話です。さらに言い添えるなら、雨宮くんの作る朝食の前でしたから、例え庭に出ていなくとも私は手を洗いに行きましたよ」
「でも、雨宮くん。話を聞いていて思ったのだけど、どうしてハンカチが濡れていたからって庭に出ていたことの証明になるの? それこそ、この屋敷に点在する洗面所でだって手を洗えるじゃない」
四葉の少女の率直な疑問。
そんな反論が出てくることは織り込み済みである。
確かに彼女が指し示すように、屋敷内のトイレやどこか洗面台が設置されているところで手を洗ってきた可能性も否めない。
しかし、だ。
「四ノ葉さんもご存知……、どころか常にその身で体験しその恩恵を享受していることかと思いますが。この屋敷内の設備はとても充実したものです。それこそトイレには人感センサーが付いていますし、併設の洗面器の横には手拭い用のタオルだって、ましてやハンドドライヤーまでも設置されています」
目の前にハンドタオルがあるというのに、ポケットの中に手を伸ばすものはいるのだろうか。
いや、いない。
いわんやハンドドライヤーをや、である。
まあ、仮にいたとしても、もはやその行為は行き過ぎた執着、ある種の信仰とも言えるだろう。あるいは愛。
それは菊野くんにとっての植物に対する想いと同義かもしれない。
僕は窓の外へと想いを寄せる。
「四ノ葉さんは知っていますか? 僕らが普段生活している洋館であるこの本館と離れの別館の二つにしか、お手洗いは完備されていないんですよ」
すなわち、それは言い換えれば、手や身の回りの衛生管理を目的とした設備は屋外には存在しないということになる。
しかし、このままではここに一つの矛盾が生じてしまう。
それは–––––
「だと仰るなら雨宮くん、私は一体どこでこの手を洗ったのでしょうか?」
協力ありがとう、菊野くん。
でもまあ、これは君が望んだことなんだけどね。
なにも水道管に繋がれているのは、トイレやキッチンなどに限った話ではないということ。
「菊野くん、ハンカチが濡れていたところを見るに、君が手を洗ったのは間違いなく屋外です」
そしてそれに該当する蛇口には今頃きっと、尾の長い蛇が文字通りその小さな口を開いて『し噛み』付いているに違いない。
ちなみにだが、蛇口の語源が何であるかご存知だろうか?
なんと、蛇口の語源となったのは方位を守護する幻獣の一匹––––青龍であるらしい。
と言うのも、歴史上日本は水道技術を西洋から輸入していた過去があり。
西洋圏特にイギリスでは獅子を水の守り神と祀っていたことからその姿を吐水口のモチーフとしていたらしく、日本に到来した際、日本では水を司る神として龍を崇拝していたことから、デザインを獅子から龍の形へと変容させ、それからその見た目に相応しい名前をつけたのだとか。
なるほど確かに、蛇口から水が流れ出るその様子は、まさしく龍の口から気が解き放たれているようである。
屋敷の外、庭の花壇の近くにそれがあることは、花にとっても菊野くんにとっても縁起のいいことに違いない。
何せ龍神の加護であるのだから。
ふと思う。
ともすれば、蛇も手足を生やせば龍にだってなれるのではないか。……いや、そんなこと想像するだけ無駄だろう。だってその設問は、|遥か歴史の彼方の楚の国《戦国策–斉策》ですでに証明されている。
なればこそ、龍だけに、蛇足の推理はここで終わらせるとしよう。
「君がこの部屋を訪れる前にその両手を洗った場所とは、庭と直接通じている裏口近くに設置された水場––––立水栓の前だ。そうでしょう? 菊野くん」
名探偵のように……いや、まさしく名探偵として僕は自らの推理を締め括ったのだった。
夜明け前を彷彿とする束の間の静寂が訪れる。
それも菊野くんの心の底からの賛美喝采によって、掻き消されるのだった。
「ご明察‼︎ さすが雨宮くん––––東洋のシャーロックの名に相応しい実に聴きごたえのある推理でした」
予想以上の喜びを見せるブロンドの少年。
彼の反応を前に口許に若干の苦笑を滲ませながら僕は、「ありがとうございます」とだけ返した。
蛇足がてら、ここで少し注釈を加えておくとしよう。
それは菊野くんがどうして外の蛇口を使わざるを得なかったのかのその理由。
こんなのは考えるまでもなく、簡単だ。誤解を恐れず言うならそれは僕のせいである。詳しくは僕の作る朝食のせい。
彼は先ほどまでの会話の中で、僕の作る料理を楽しみにしていると語ってくれた。僕としても、とても光栄なことであり嬉しいことである。しかし、今回はそのことが菊野くんの両手を屋内の蛇口ではなく、屋外の蛇口へと向かわせた。
普段は朝食開始時間である七時の三十分前には入室している菊野くん。彼が本日リビングに顔を出した時刻は六時三十五分弱であった。おおかた、花壇の花たちの世話に夢中になっていたのだろう。手首に回した時計の時刻を見て彼は目を丸くしたはずだ。
それで、遅刻しないようにと前髪を解くのを忘れてしまうほど急いで立水栓で手を洗い、リビングへと流れてきたのだろう。
ここ一階のトイレはエントランスホールにのみ設置されているため、裏口から入ってエントランスホールに向かい折り返してここに辿り着くよりかは、外で手を洗う方が幾分も早くリビングへ向かえるのは、もはや必然である。
それに菊野くんのことだ。庭の用具入れのところに肥料やスコップなどの他に手洗い用の石鹸を置いていても不思議はない。むしろ納得の用意周到さ加減だ。
朝食開始の時間まであと二十分。
テレビ画面の右肩に表示されている時刻を見て、間も無く焼き上がるであろう鮭のために、盛り付け用の皿を棚から取り出す。その際、他の食器も台の上に出しておく。
ご飯が炊き上がっているか炊飯器に近寄り様子を伺う。良さそうだったので蓋を開いて軽く中をかき混ぜておいた。
四葉の少女は再び固定の座席に戻り取り出した携帯に見入っている。
———『続』———
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