第5話 初期スキンみたいな私
牛乳パックは、まだ空のままだった。
キッチンの端に置かれたそれを見て、私はため息をついた。
昨日までは、ただの空き容器だった。
飲み切ったら潰して、資源ごみの日に出すだけのもの。
でも今は、なぜか私を責めているみたいに見える。
買いに行けばよかったのに。
もっと早く気づけばよかったのに。
いつも通り、ちゃんと残量を見ておけばよかったのに。
そんなことを言われている気がした。
「牛乳に責められる人生って、何……」
自分で言って、少しだけ笑った。
笑えるなら、まだ大丈夫。
そう思いたかった。
第2回目の降下から戻ってきたあと、私はノートに分かったことを書き出し、床に座ったまましばらく動けなかった。
リーコン系アイテムは敵の位置が見える。
車の音は遠くからでも分かる。
裏口は押すとは限らない。
泣いても、戦場は待ってくれない。
牛乳は、やっぱり必要。
最後の一行だけ、何度見ても変だった。
けれど、今の私にとっては間違いなく重要項目だった。
冷蔵庫を開ける。
中には、昨日のタッパーの残りが少し。
卵が一個。
半分だけ残った食パン。
小さなパックのマーガリン。
賞味期限が迫っている豆腐。
生活が、薄い。
そう思った。
一人暮らしを始めてから、冷蔵庫の中身はいつもこんな感じだった。
ぎっしり詰まっていることなんて、ほとんどない。
何をいつ食べるか、何日持たせるか、頭の中で計算しながら買っていた。
でも、買い物に行けることが前提だった。
安い日に卵を買う。
バイト帰りに値引きの惣菜を見る。
牛乳が少なくなったら、スーパーかコンビニで補充する。
その小さな前提が崩れただけで、私の生活はこんなにも頼りなかった。
「……食べよ」
私は半分の食パンを取り出し、トースターに入れた。
卵はまだ使わない。
明日のために残しておきたい。
マーガリンを薄く塗っただけのトーストをかじる。
いつもなら、ここにコーヒーがある。
砂糖なしで、牛乳を少しだけ入れたコーヒー。
できれば、ミルクウォーマーで泡立てたミルクを乗せたやつ。
今日はない。
黒いだけのコーヒーを淹れることはできる。
でも、今それを飲んだら、牛乳がないことをもっと強く感じそうだった。
私は水道水をコップに入れて飲んだ。
「……味気ない」
それでも、喉は潤った。
スマホを見る。
時刻は午前十時を過ぎていた。
大学の一限は、とっくに始まっている。
出席は、たぶんもう取られた。
三限も行ける見込みはない。
バイトは夕方。
どう考えても間に合わない。
店長に連絡したい。
体調不良でも何でもいいから、せめて休むと伝えたい。
でも、電話は繋がらない。
メールも送れない。
LINEも既読にならない。
私は試しに、もう一度バイト先へ電話をかけた。
発信中。
無音。
切断。
「……だよね」
分かっていた。
分かっていたけど、試さずにはいられなかった。
スマホを置き、ノートを開く。
ページの端に、昨日の自分の字が震えた線で残っている。
『生きて戻るために、まず見る』
その下に、私は新しく書いた。
『次の目的
1、降下場所をもっと慎重に選ぶ
2、武器を拾う
3、敵を見つけたらすぐ撃たない
4、できればリーコン系アイテムを探す
5、逃げ道を確認する
6、できれば一回だけ撃ってみる』
六番目を書いたところで、手が止まった。
撃ってみる。
文字にしただけで、胸が重くなる。
昨日、私は撃てなかった。
最初の小屋で、相手と目が合ったとき。
自分の手にはショットガンがあったのに、引き金を引けなかった。
相手は迷わなかった。
私は撃たれた。
もし次も同じことが起きたら?
また撃てないかもしれない。
また怖くて固まるかもしれない。
それでも、いつかは撃たなきゃいけない。
この世界で生き残るには、見るだけじゃ足りない。
逃げるだけでも足りない。
私は自分の手を見た。
ペンを握っているだけなのに、指先が少し震えている。
「ゲームだったら、撃てるのに」
画面の中なら、撃てる。
敵を見つけたら照準を合わせて、ボタンを押す。
当たれば嬉しい。
倒せればもっと嬉しい。
負ければ悔しい。
でも、そこに痛みはない。
相手の息遣いもない。
目が合うこともない。
この島では違う。
撃たれると痛い。
倒される瞬間が怖い。
だったら、たぶん相手もそうなのかもしれない。
いや、相手が本当に人なのかどうかも分からない。
プレイヤーなのか。
この世界の何かなのか。
私と同じように閉じ込められた誰かなのか。
考え始めると、撃てなくなる。
私はノートを閉じた。
「今は、考えすぎない」
そう言いながら、動画サイトを開く。
師匠GUNSHOTのチャンネル。
昨夜と同じように、落ち着いた声の解説動画を再生する。
『初心者の人は、敵を見つけた瞬間に焦って真っすぐ逃げます。でも、真っすぐ逃げると的になります。遮蔽物を挟む。相手の視線を切る。それだけで生存率は上がります』
私は画面を止めて、ノートに書いた。
真っすぐ逃げない。
遮蔽物を挟む。
視線を切る。
動画の中の師匠は、派手に敵を倒しているわけではなかった。
撃ち合う前に、敵より良い位置を取っている。
相手が撃ちにくい角度へ回り込む。
一度撃ったら、すぐ場所を変える。
私が今まで「上手い人のエイム」だと思っていたものの半分以上は、撃つ前の準備でできていたのかもしれない。
「撃つ前に、勝つ場所を作る……」
私はつぶやいた。
かっこいい。
でも、今の私には遠い。
私なんて、まだ降下して、武器を拾って、逃げて、泣いて、倒されるだけだ。
初期スキンみたい。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
ゲームを始めたばかりの頃に使う、何も持っていない初期状態のキャラクター。
強そうな見た目でもない。
特別なエモートもない。
立ち回りも分かっていない。
今の私は、まさにそれだった。
いや、初期スキンでも上手い人は上手い。
見た目だけで判断して突っ込むと、普通に返り討ちにされることもある。
でも、私の場合は見た目通りに弱い。
「初期スキン風宮……」
語呂が悪い。
私は少しだけ笑って、スニーカーの紐を結び直した。
行きたくない。
でも、行くしかない。
昨日より、少しだけ準備はできている。
スマホはローテーブルの上。
ノートの切れ端とボールペンはポケット。
ハンカチと絆創膏。
水を少し飲んだ。
服は動きやすいジャージ。
靴はスニーカー。
私は玄関の前に立った。
ドアは、何も知らない顔をしてそこにある。
「三回目……」
自分で数えたくなかったけれど、数えてしまった。
一回目は、小屋で撃たれた。
二回目は、リーコン系アイテムを使えたが、倒された。
三回目は、どうなるんだろう。
怖い。
でも、少しだけ思う。
昨日よりは、何か見えるかもしれない。
私はドアノブを握った。
冷たい。
いつもの、あの低い振動。
「見る。逃げる。真っすぐ逃げない」
小さく唱える。
鍵を開ける。
かちゃり。
ドアを押す。
風が吹き込む。
草の匂い。
金属の焦げた匂い。
遠くの銃声。
足元が消える。
「っ……!」
体が前に引っ張られた。
ローテーブル、空の牛乳パック、ミルクウォーマーが遠ざかる。
そして私は、三度目の空へ投げ出された。
――降下開始。
今度は、空に出た瞬間から周囲を見た。
まず、光の筋。
多い場所は避ける。
街はだめ。
大きな建物もだめ。
道路沿いも、車があるかもしれないから怖い。
森の中に、小さな家が一軒見えた。
近くに池。
少し離れて岩場。
光の筋は、遠くに二本。近くには見えない。
「そこ……!」
私はグライダーを傾ける。
風を受けながら、森の方へ流れる。
着地直前、膝を曲げる。
昨日よりも、少しだけうまくいった。
どさっ。
足に衝撃。
でも、転ばない。
「よし」
今度はすぐに走らなかった。
しゃがむ。
周囲を見る。
木。
岩。
小さな家。
池。
足音は、今のところ聞こえない。
銃声は遠い。
私は小さな家へ向かって、低い姿勢で移動した。
玄関は開いていた。
中に入る前に、足を止める。
昨日は、建物に入ったあと、外から敵が来た。
今日は、入る前に周りを見る。
右。
左。
後ろ。
屋根の上。
何も見えない。
でも、見えないだけかもしれない。
私は息を止めるようにして中へ入った。
床に、ピストルが落ちていた。
「……ピストル」
正直、強そうには見えない。
ゲームでも、初動で仕方なく拾うことが多い武器。
強い人が使えば強いのかもしれないけれど、私が持っても不安しかない。
でも、何もないよりはまし。
私は拾った。
軽い。
昨日のアサルトライフルよりは、ずっと軽い。
その分、心細い。
部屋の奥には、回復アイテムらしき包帯と、小さな青い瓶があった。
青い瓶を飲む。
体の表面に薄い膜が張る感覚。
やっぱり気持ち悪い。
でも、少し安心する。
そのとき、外で足音がした。
私は固まった。
ざっ。
ざっ。
近い。
たぶん、家の外。
昨日なら、ここでパニックになっていた。
いや、今も十分パニックだ。心臓がうるさい。手が汗で湿っている。
でも、昨日よりひとつだけ違う。
私は足音の方向を聞こうとしていた。
右側。
窓の外。
たぶん、池の方から来ている。
私は部屋の中央に立たず、壁際へ寄った。
窓から見えない位置。
ドアから一直線に撃たれない位置。
遮蔽物。
逃げ道。
視線を切る。
師匠の声が頭の中で繰り返される。
足音が止まった。
相手は、家の外にいる。
入ってくる?
通り過ぎる?
気づかれている?
ピストルを握る手が震える。
引き金に指をかける。
怖い。
でも、昨日みたいに何もできないのは嫌だった。
ドアの前に影が差した。
私は銃口を向ける。
相手が入ってくる。
一瞬、目が合った。
昨日と同じ。
でも、今日は違った。
私は叫びそうになる口を閉じ、引き金を引いた。
ぱんっ。
ものすごく大きな音がした。
反動で手首が跳ねる。
弾がどこへ飛んだのか分からない。
相手は倒れていない。
外した。
でも、相手が一瞬だけひるんだ。
その隙に、私は反対側の窓へ走った。
真っすぐ逃げない。
視線を切る。
窓枠に手をかけ、外へ飛び出す。
着地で膝を打った。痛い。
でも止まらない。
背後で銃声。
ぱぱぱっ。
窓枠が弾ける音がした。
私は岩場へ向かって走った。
一直線ではなく、木を挟むように。
岩を挟むように。
撃ち返さない。
逃げる。
でも、ただ逃げるんじゃない。
見えないように逃げる。
岩の裏に滑り込んだ瞬間、弾が近くの地面を叩いた。
「ひっ……!」
声が出た。
怖い。
怖い怖い怖い。
でも、まだ生きている。
私は岩の陰で息を殺した。
足音が追ってくる。
右から。
いや、左に回り込もうとしている?
分からない。
私はピストルを握る。
弾を当てる自信なんてない。
でも、一発撃てた。
それだけでも、昨日よりは進んだ。
足音が近づく。
私は岩の左側を見ていた。
けれど、相手は右から出てきた。
「あっ」
遅い。
銃口がこちらを向く。
私は反射的に撃った。
ぱんっ。
ぱんっ。
一発目は外れた。
二発目は、相手の腕あたりに当たったように見えた。
本当に当たったのかは分からない。
でも、相手の体が少し揺れた。
「当たっ……」
言い終わる前に、相手の銃が火を吹いた。
胸に衝撃。
肩に熱。
視界が白くなる。
まただ。
倒される。
けれど、今度は完全な無抵抗じゃなかった。
一発だけでも撃った。
たぶん、一発当てた。
それが何になるのか分からない。
勝てたわけじゃない。
生き残れたわけでもない。
でも、何もできなかった私ではなかった。
世界が消える寸前、私はそう思った。
… … … …
目を開けると、ワンルームの天井が見えた。
戻ってきた。
床に倒れている。
胸が痛い。肩も痛い。
でも、傷はない。
私はしばらく天井を見つめたまま、荒い息を吐いた。
怖かった。
やっぱり怖かった。
でも、最初に出た言葉はそれではなかった。
「……撃てた」
声が震えていた。
私はゆっくり体を起こす。
ローテーブルの上には、スマホ。
空の牛乳パック。
ノート。
ミルクウォーマー。
いつもの部屋。
でも、少しだけ違って見えた。
私はノートを開き、ペンを握った。
今日分かったことを書く。
3回目。
森の小屋に降下。
ピストルを拾った。
青い瓶を飲んだ。
敵が来た。
一発目は外した。
窓から逃げた。
真っすぐ逃げないのは少し有効。
二発目か三発目が当たったかもしれない。
でも負けた。
そこまで書いて、手が止まる。
私は少し迷ってから、最後に一行を足した。
私は、撃てた。
その文字を見た瞬間、胸の奥がぎゅっとなった。
嬉しいわけじゃない。
誇らしいわけでもない。
怖さは消えていない。
でも、昨日までの私は、敵と目が合っただけで固まっていた。
今日は、撃てた。
逃げることもできた。
少しだけ、考えて動けた。
初期スキンみたいな私でも、ほんの少しだけ経験値が入ったのかもしれない。
私はペンを置き、キッチンを見た。
空の牛乳パックが、まだそこにある。
「……まだ買えてないけど」
私は小さく笑った。
笑ったら、また目の奥が熱くなった。
悔しい。
今度は、ちゃんと悔しかった。
怖いだけじゃない。
悲しいだけじゃない。
負けたことが、悔しい。
それはたぶん、私が少しだけ、この世界で戦おうとしてしまった証拠だった。
私はスマホを手に取り、送信失敗のままのLINEを見た。
咲。
隼人。
まだ届かない。
でも、いつか話せる日が来たら、私は何から話すんだろう。
牛乳を買いに出たら、空から落ちたこと。
撃たれて痛かったこと。
リーコン系アイテムで敵が見えたこと。
ピストルを撃ったこと。
たぶん一発だけ当てたこと。
隼人なら、きっと笑う。
「初キルまだかよ」
とか言いそうだ。
咲なら、眉を寄せて言う。
「まずは記録を見せて。状況を整理するから」
その顔を想像したら、少しだけ呼吸が楽になった。
私はノートを閉じる。
そして、ミルクウォーマーに目を向けた。
中は空っぽ。
牛乳がないから、今日は動かせない。
あの低い音も、湯気も、白い泡もない。
でも、私はもう一度それを使う。
絶対に。
そのために、またドアを開ける。
怖くても。
負けても。
泣いても。
私は、まだ初期スキンみたいに弱い。
でも、初期スキンのまま終わるつもりはなかった。




