第1話 玄関の向こうは降下地点
――降下開始。
視界の端に浮かんだその文字を、私は理解できなかった。
いや、正確には、理解したくなかった。
だって、そんなはずがない。
私はついさっきまで、自分のワンルームにいた。
タコパから帰って、コーヒーを淹れて、ゲームをして、牛乳が切れて、コンビニに行こうとした。
それだけだった。
なのに今、私は空から落ちている。
体が、落ちている。
「いやああああああっ!」
叫んだ声は、風に千切れて消えた。
パーカーの袖がばたばたと暴れ、髪が顔に張りつく。片足だけになったサンダルが、今にも脱げそうだった。心臓が喉から飛び出しそうなくらい暴れている。
下を見る。
見なければよかった。
黒い海に囲まれた大きな島。
川が走り、森が広がり、街の灯りが点々と見える。
遠くには高層ビルのような建物。反対側には工場地帯みたいな場所。山の斜面には、細い道路が白い線のように伸びている。
どこかで見たことがある。
いや、見たことがあるどころじゃない。
さっきまで、画面の中で何度も降りていた場所に似ている。
「ゲーム……?」
その言葉を口にした瞬間、背筋が冷えた。
違う。
ゲームじゃない。
風が痛い。
息が苦しい。
目を開けているだけで涙が出る。
落ちている感覚が、胃をひっくり返す。
コントローラーを握っているときの降下とは何もかも違う。画面の中なら、降下ミスをしても「あー、やばい」で済む。けれど今の私は、手を滑らせたら本当に死ぬような気がした。
そのとき、背中に何かが弾けるような感覚があった。
ばさっ。
「えっ?」
反射的に振り返ろうとしたけれど、うまく体が動かない。
代わりに、落下速度が少しだけ緩んだ。
頭上に、見慣れない布のようなものが開いていた。
グライダー。
ゲームで降下するときに使う、あれだ。
「うそ……ほんとに……?」
私は震える手で、左右に伸びた持ち手らしきものを掴んだ。すると、体が少しだけ傾いた。
右に力を入れると、右へ流れる。
左に力を入れると、左へ流れる。
動かせる。
そう理解した瞬間、恐怖の中にほんの少しだけ思考が戻ってきた。
落ちる場所を選ばないと。
でも、どこへ?
ゲームなら、私はいつも人が少なそうな場所に降りる。激戦区は無理だ。武器を拾う前に倒される。特に建築なしのモードでは、遮蔽物を取れなかった瞬間に終わる。
「人が少ないところ……人が少ないところ……!」
目を凝らす。
遠くの大きな街には、何本もの光の筋が降りていくのが見えた。
たぶん、他のプレイヤーだ。
いや、プレイヤーって何。
あれは人なのか。
人じゃないのか。
考えたら怖くなったので、私は無理やり視線を逸らした。
街から少し離れた場所に、小さな建物が三つほど並んでいる。周りには木があり、道があり、畑のような場所も見える。ゲームだったら、物資は少ないけれど初動で死ににくい場所だ。
「そこ……そこにする……!」
私はグライダーを傾けた。
風が体を横へ押す。
手のひらに食い込む持ち手が痛い。
それでも離すわけにはいかなかった。
高度が下がる。
地面が近づく。
草の一本一本までは見えない。けれど、地面が硬そうなのは分かる。だんだん速くなる心臓。どうやって着地すればいいのか分からない。
ゲームなら、着地は勝手にしてくれる。
今は?
「待って、これ、足折れるやつじゃ……!」
そう思った瞬間、グライダーがふっと消えた。
「はあっ!?」
体が落ちる。
ほんの数メートル。
でも、私にはビルの屋上から落ちたくらいに感じた。
どさっ。
「いった……!」
膝から地面に落ち、手をついた。草と土の匂いが鼻に入る。手のひらに小石が食い込んだ。
痛い。
ちゃんと痛い。
私はしばらく、四つん這いのまま動けなかった。
息が荒い。
喉が乾く。
耳の奥で自分の心臓の音がしている。
「なに、これ……」
顔を上げる。
周囲には、夜明け前みたいな青い光が満ちていた。空には雲が流れ、遠くで銃声が響いている。
乾いた連射音。
ぱぱぱぱぱっ。
私は反射的に肩をすくめた。
怖い。
画面越しなら、銃声は情報だった。
あっちで戦ってる。
じゃあ漁夫に行くか、避けるか。
そんなふうに考えられた。
でも今は違う。
音が、体に刺さる。
あの音の先に誰かがいて、誰かが撃っている。もしかしたら、次はこっちに向くかもしれない。
「武器……武器拾わなきゃ」
自分で言って、少しだけ驚いた。
こんな状況でも、私はゲームの知識で動こうとしている。
近くの小屋へ向かって走る。
いや、走るというより、よろけながら進む。片足は裸足で、地面が冷たい。小枝を踏むたびに痛みが走る。
小屋の扉は半開きだった。
中に入ると、木箱、棚、古びた机。
そして床の上に、ぼんやり光るものが落ちていた。
見覚えのある形。
ショットガン。
「……本物?」
近づくと、勝手に手が伸びた。
拾おうと思ったわけじゃない。
でも、体がそうすることを知っているみたいに、私はそれを掴んでいた。
ずしりと重い。
ゲーム画面の中では一瞬で装備できる武器が、こんなに重いなんて知らなかった。金属の冷たさが、手のひらに伝わる。
弾も、なぜか装填されている。
私は唾を飲み込んだ。
「使えるわけ、ないじゃん……」
そう言いながらも、両手で構える。
ゲームで何百回も見た構え。
でも、自分の腕でやると全然安定しない。銃口が小刻みに揺れる。
棚の上には、小さな青い瓶のようなものがあった。
シールド回復系のアイテムに似ている。
「飲むの……? これを?」
手に取ると、冷たかった。
瓶の中の液体は、青く光っている。
いかにも怪しい。
現実なら絶対に飲まない。
でも、この世界ではたぶん、飲むものなのだ。
私は少しだけ迷って、ふたを開けた。
甘い匂いがした。
薬みたいで、スポーツドリンクみたいで、少し金属っぽい。
「……死なないよね」
一口飲む。
喉を通った瞬間、体の表面に薄い膜が張るような感覚があった。痛めた膝の熱が少し引く。手のひらの小さな傷も、じんわり冷えていく。
「なにこれ……」
気持ち悪い。
でも、助かった気もする。
そのときだった。
外で足音がした。
ざっ、ざっ。
草を踏む音。
私は息を止めた。
小屋の壁の向こう。
誰かがいる。
ゲームなら、足音表示が画面に出る。
今は何もない。
ただ、耳だけが頼りだ。
ざっ。
近い。
ざっ。
もっと近い。
私はショットガンを握りしめた。
手が震える。
引き金に指をかけていいのか分からない。
いや、かけなきゃいけないのかもしれない。
扉の隙間に影が差した。
人影。
私と同じくらいの背丈。
けれど顔はよく見えない。
全身にゲームのキャラクターみたいな装備をまとっている。
相手がこちらを向いた。
一瞬、目が合った気がした。
私は撃てなかった。
怖かったからじゃない。
いや、怖かった。
怖かったけれど、それ以上に、画面の中ではない相手に向かって引き金を引くという行為が、どうしても現実味を持ちすぎていた。
相手は迷わなかった。
銃口が上がる。
ぱんっ。
乾いた音。
肩に衝撃が走った。
「っあ!」
熱い。
痛い。
体が後ろへ弾かれる。
私は尻もちをついた。手からショットガンが滑り落ちる。肩を押さえると、服の下がじんじんと熱かった。
撃たれた。
その事実が、遅れて頭に届いた。
相手が小屋に入ってくる。
足音が近い。
銃口が私に向く。
「やだ……」
声が震えた。
私はショットガンに手を伸ばそうとした。
でも、指先が届かない。
相手の銃口が、私の胸元で止まった。
ゲームなら、ここで終わりだ。
撃たれる。
ロビーに戻る。
次のマッチ。
でも、これは本当に次があるの?
死んだら?
その先を考える前に、二発目の銃声が響いた。
視界が白く弾けた。
音が消えた。
体の感覚が、遠くなる。
最後に見えたのは、小屋の床に転がった片方だけのサンダルだった。
⸻
目を開けた。
天井があった。
白い、少し黄ばんだ、自分の部屋の天井。
「……え?」
私は瞬きをした。
蛍光灯。
ベッド。
ローテーブル。
ゲーム画面。
キッチン。
ミルクウォーマー。
自分のワンルームだった。
私は床に座り込んでいた。
玄関の前ではない。ローテーブルの横だ。まるで、ゲームをしている途中でそのまま倒れ込んだみたいに。
「戻って……きた?」
声がかすれていた。
慌てて肩を見る。
撃たれたはずの肩。
服をめくる。
血はない。傷もない。
でも、痛みだけが残っていた。
鈍い痛み。
確かに撃たれた場所が、熱を持っている。
私は震える手でスマホを掴んだ。
画面には、深夜の時刻が表示されている。
部屋を出ようとしたときから、ほとんど時間は経っていなかった。
「夢……?」
そう言いかけて、足元を見た。
サンダルが片方しかない。
右足用だけが、玄関に残っている。
左足用は、ない。
小屋の床に転がっていた片方のサンダル。
あれは、夢じゃない。
私は息を吸った。
うまく吸えなかった。
胸の奥がぎゅっと縮む。
次の瞬間、遅れてきた恐怖が全身を駆け上がった。
「なに……なにこれ……!」
私はマグカップを倒しそうになりながら、ローテーブルから後ずさった。
部屋はいつも通りだった。
でも、もういつも通りには見えなかった。
玄関のドアが、そこにある。
ただのドア。
安っぽい金属製のドア。
コンビニへ行くために、毎日開けていたドア。
その向こうに、さっきの島がある。
銃声がある。
知らない誰かがいる。
私は撃たれる。
私は、牛乳を買いに行けない。
そう思った瞬間、なぜか一番最初に涙が出た理由は、それだった。
怖いからでも、痛かったからでもない。
ただ、牛乳が買えない。
明日の朝のコーヒーが飲めない。
そんな小さすぎる現実が、私の心を折りにきた。
私は床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
ゲーム画面の中では、私のキャラクターがロビーで何事もなかったみたいに立っている。
その姿が、妙に腹立たしかった。




