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牛乳を買いに出ただけなのに、ゼロビルド島でビクロイするまで帰れません  作者: 風宮亜矢


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プロローグ タコパ帰りの泡ミルク

「亜矢、ちゃんと食べてる?」


別れ際、三上咲がいつもの真面目な顔でそう言った。


駅前のロータリーには、夜のバスを待つ人がぽつぽつと立っている。四月の終わりの空気はまだ少しだけ冷たくて、たこ焼きパーティーで火照った頬に、夜風が気持ちよかった。


「食べてるって。今日だって、たこ焼きいっぱい食べたし」


私がそう答えると、隣で栗生隼人が鼻で笑った。


「たこ焼きは食事じゃねぇだろ。あれは祭りのテンションで食う炭水化物だ」


「うるさいなあ。隼人、最後の方ほぼタコなし焼き食べてたじゃん」


「生地がうまけりゃ勝ちなんだよ」


隼人はそう言って、コンビニ袋を肩に引っかけ直した。袋の中には、サークルで余ったスナック菓子が雑に入っている。ワイルドというか、大ざっぱというか、彼は何をするにも力技だ。好きなゲームでも、遠くから狙う武器を持っているくせに、なぜか前に出る。本人いわく「攻めるスナイパー」らしい。


一方の咲は、今日のタコパでも誰が何を持ってきたか、誰が何円払ったかをスマホにきっちりメモしていた。几帳面で、抜けがない。好きなゲームも、遮蔽物や視界の取り方を丁寧に詰めていくタイプの三人称バトロワだ。


そして私は、建築要素が有名な世界的人気ゲームの、建築なしモードばかり遊んでいる。


三人とも好きなゲームは違う。

でも、最後まで生き残るために考える時間が好き、という点だけは同じだった。


「じゃ、亜矢。明日一限でしょ。寝坊しないように」


咲が言う。


「うん。咲こそ、帰ったらすぐ寝なよ。絶対また今日の反省メモとか作るでしょ」


「作るけど、十分で終わる」


「出た、几帳面」


隼人が笑うと、咲は少しだけ眉を寄せた。


「あなたが会計を適当にするから、私が管理してるんだけど」


「助かってまーす」


「感謝が軽い」


二人のやり取りを見ていると、少しだけ胸の奥が温かくなる。


大学に入る前、私は自分がサークルに馴染めるタイプだとは思っていなかった。実家は田舎で、大学まではバスと電車を乗り継いで三時間弱。通えなくはない。でも、それを毎日続けたら、たぶん授業より先に心が折れる。


だから親に無理を言って、大学近くのアパートで一人暮らしをさせてもらっている。


もちろん、余裕があるわけじゃない。

仕送りは最低限。

近くのスーパーで品出しのアルバイトをして、家賃と食費と光熱費を計算して、スマホのメモ帳に残高を書き込む。


月末が近づくと、買うものはだいたい決まってくる。

もやし。卵。安い食パン。値引きシールの惣菜。牛乳は少し迷ってから買う。


本当はカフェで飲むようなラテが好きだ。

でも、そんなものを毎日買える生活じゃない。


だから私は、自分の部屋でコーヒーを淹れる。


砂糖は入れない。

牛乳を少しだけ。

それだけで、苦いだけの夜が少し柔らかくなる気がする。


「じゃあね、亜矢」


「また明日な」


咲と隼人が手を振る。


私も手を振り返して、アパートへ向かった。


大学から徒歩十五分。築年数はそれなり。階段は少し錆びていて、廊下の照明はたまに点滅する。けれど、私にとっては大事な自分の城だ。


鍵を開けると、六畳のワンルームが私を迎えた。


「ただいま」


誰もいない部屋に、そう言う。


玄関横の小さなキッチン。

折りたたみのローテーブル。

ベッドの上には、畳みきれなかったパーカー。

机の端には、心理学概論のテキストと、ゲーム用のヘッドセット。


冷蔵庫を開けると、透明なタッパーがひとつ入っていた。

中身は、バイト先の店長がくれた売れ残りの唐揚げとポテトサラダ。


本来はダメなのだと思う。

たぶん、店長も分かっている。


それでも閉店後、誰も見ていないタイミングで、


「風宮さん、これ廃棄だから。持って帰るなら自己責任な」


と、わざとぶっきらぼうに言ってくれる。


私はそのたびに、深く頭を下げる。

ありがたすぎて、うまく笑えないこともある。


タッパーを見て、今日の夜食はこれでいいかと思った。

たこ焼きでお腹は膨れているけれど、帰ってきた部屋で何かを少しつまみたくなる夜がある。


私は上着をハンガーにかけ、手を洗い、電気ケトルに水を入れた。


そして、キッチンの隅に置いてある白い小さな機械に目をやる。


ミルクウォーマー。


正確には、ミルクを温めながら泡立ててくれる小型の家電だ。

ころんとした丸い形で、白い本体に透明のふたがついている。中には小さな泡立て用の部品がはまっていて、スイッチを押すと、底のほうで静かに回転する。


誕生日に、咲と隼人がくれた。


「亜矢、カフェ代節約してるって言ってたから」


咲はそう言って、丁寧にラッピングされた箱を差し出してくれた。


「これで部屋でもそれっぽいの飲めんだろ」


隼人は照れ隠しみたいに、横を向きながら言った。


あのとき私は、思っていたより泣きそうになってしまって、慌てて笑った。


自分が何気なく話したことを、二人が覚えていてくれた。

それだけで、十分すぎるくらい嬉しかった。


私は冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。


軽い。


「あれ」


持った瞬間、少し嫌な予感がした。


でも、まだ一杯分くらいはあるはずだ。

そう信じて、ミルクウォーマーの内側の線を確認しながら、牛乳を注ぐ。


とく、とく、とく。


細い白い流れが、銀色の内側に落ちる。

泡立て用の線には、ぎりぎり届くか届かないか。


「……まあ、いけるでしょ」


私はふたを閉めて、スイッチを押した。


小さな赤いランプが点く。


うぃん、という低い音。

それから、かすかに液体が回る気配。


ミルクウォーマーが動き出すと、部屋の空気が少しだけ変わる。

ゲーム機の起動音や、スマホの通知音とは違う。

もっと生活に近い音。

ちゃんと自分のために何かを用意している音。


ケトルが湯気を上げ始める。


私はマグカップにインスタントコーヒーを入れた。

本当は豆から挽くとか、ドリップするとか、そういうのに憧れはある。でも今は、安い大瓶のインスタントで十分だ。


スプーン一杯半。

お湯を少し注いで、粉を溶かす。

黒い液体から、ほろ苦い香りが立ちのぼる。


ミルクウォーマーの音が止まった。


ふたを開けると、ふわりと甘い匂いがした。


温まった牛乳の匂い。

湯気。

表面にできた、きめの細かい泡。


私はスプーンで泡をすくい、コーヒーの上にそっと乗せる。

白い泡が黒い表面に浮かんで、じわりと端から混ざっていく。


それを見るのが好きだった。


ほんの少しだけ、自分の生活が丁寧になった気がするから。


マグカップを両手で持って、ローテーブルの前に座る。


「母さんには内緒な…」


そう言って大学の入学祝いに父が買ってくれたPS5の電源を入れると、画面が明るくなった。


最近、私はあるバトロワにかなりハマっている。


本来は建築要素が有名なゲームだけれど、私が遊んでいるのは建築なしのモードだ。壁も階段も一瞬で出せない。撃たれたら、遮蔽物まで走るしかない。位置取りと判断が、そのまま生存率になる。


今のシーズンでは、拳のような機動アイテムが強いらしい。

アッパーで相手を浮かせて、自分も一気に距離を詰める。

そのまま空中でショットガンを当てる。


動画で見ると簡単そうなのに、自分でやると全然できない。


「なんで今の外すかなあ……」


画面の中の私は、アッパーで飛び上がったあと、見当違いの方向にショットガンを撃っていた。

敵は普通に着地し、普通に撃ち返してきて、私は普通に倒された。


ロビーに戻る。


私は泡の残ったコーヒーを一口飲んだ。


苦い。

でも、ミルクの甘さが少しだけ残る。


スマホで動画サイトを開く。


最近よく見ている配信者がいる。

登録者がものすごく多いわけではない。

けれど、戦い方が好きだった。


派手に突っ込むだけじゃない。

敵を見つけるのが早い。

逃げる判断が早い。

撃ち合う前に、もう勝つ場所を決めているように見える。


私は勝手に、その人を師匠と呼んでいる。


「師匠、今の私のアッパー見たら泣くな……」


誰もいない部屋でつぶやいて、もう一度マッチを開始する。


何度も負けた。

何度も降下した。

何度も武器を拾い損ねた。


時計を見ると、日付が変わりかけていた。


「やば。明日一限じゃん」


そう言いながらも、私はもう一戦だけ、と自分に言い訳する。


もう一戦だけ。

あと一回だけ。

次で終わる。


ゲームをしている人間が一番信用できない言葉だ。


結局、私はさらに三回負けた。


最後のマッチでは、終盤まで残れたのに、安置移動中に横から撃たれて終わった。悔しさで変な声が出た。


「うわ、今のは見てなかった……」


ヘッドセットを外すと、耳が少し熱い。


部屋は静かだった。

冷めかけたマグカップの底に、コーヒーが少しだけ残っている。


もう一杯、飲もう。


そう思った。


寝る前にカフェインを入れるのはよくない。

分かっている。

でも、今日はタコパで楽しかったし、ゲームでは負けっぱなしだし、少しだけ自分を甘やかしたかった。


私は立ち上がって、キッチンへ向かう。


マグカップを洗って、もう一度コーヒーの粉を入れる。

ケトルに水を足し電源を入れる。


そして冷蔵庫を開けた。


牛乳パックを手に取る。


軽い。


さっきよりも、明らかに軽い。


注ぎ口を開けて、逆さにしてみる。


ちょろり。


白い雫が数滴だけ落ちた。


「……終わった」


私はしばらく、空の牛乳パックを見つめていた。


牛乳がない。


それは、ただの牛乳切れだ。

世界の終わりではない。


でも、今の私にとってはかなり大きな問題だった。


明日の朝のコーヒー。

食パン。

ついでに、冷蔵庫の中身もかなり寂しい。


タッパーの唐揚げとポテトサラダはある。

でも、これを今食べたら明日の朝がなくなる。


私は財布を確認する。


千円札が一枚と、小銭が少し。


コンビニで牛乳と、安いお菓子をひとつ。

できれば明日の朝用にパンも買いたい。

いや、パンはスーパーのほうが安い。

でもこの時間、スーパーはもう閉まっている。


「……牛乳だけ。あと、百円くらいのお菓子」


自分にそう言い聞かせた。


部屋着の上にパーカーを羽織る。

スマホをポケットに入れる。

財布を持つ。

鍵を手に取る。


玄関の前で、私は一度だけ振り返った。


つけっぱなしのゲーム画面。

ロビーで立っている自分のキャラクター。

テーブルの上のマグカップ。

キッチンのミルクウォーマー。


さっきまで、確かに普通の夜だった。


タコパがあって、友達と笑って、帰ってきて、コーヒーを淹れて、ゲームで負けた。


ただそれだけの夜。


私はサンダルに足を入れ、ドアノブに手をかけた。


金属が、妙に冷たかった。


「あれ……?」


一瞬、静電気のようなものが指先に走った。


ぱちっ、という小さな音。


私は思わず手を引っ込める。


暗い玄関に、変な沈黙が落ちた。


外の廊下からは、いつもなら隣の部屋のテレビ音や、遠くの車の音が少し聞こえる。

でも今は、何も聞こえない。


まるで、ドアの向こう側だけが世界から切り離されたみたいだった。


「……気のせい、だよね」


私はもう一度ドアノブを握った。


今度は、冷たいだけではなかった。


手のひらの奥に、低い振動が伝わってくる。

まるで、遠くで巨大な機械が動いているような。

あるいは、空の向こうで雷が鳴っているような。


嫌な予感がした。


でも、牛乳はない。

明日の朝も来る。

私はただ、コンビニに行きたいだけだ。


「牛乳買うだけ。牛乳買うだけ」


小さく唱えて、鍵を開ける。


かちゃり。


その音が、やけに大きく響いた。


ドアを押す。


本来なら、そこには薄暗いアパートの廊下があるはずだった。

白っぽい蛍光灯。

少し錆びた手すり。

隣の部屋の傘立て。


でも、ドアの隙間から吹き込んできたのは、夜の廊下の空気ではなかった。


強い風。


乾いた草の匂い。


焦げた金属のような匂い。


そして、遠くで何かが爆ぜる音。


「え――」


言葉が最後まで出なかった。


ドアの向こうに、空があった。


廊下ではない。


足元もない。


見渡す限りの青黒い夜空。

眼下には、島のような地形。

街の灯り。

森。

川。

そして、あちこちで走る銃火の光。


次の瞬間、玄関の床が消えた。


「うそっ!」


体が前に投げ出される。


私は反射的にドア枠を掴もうとした。

指先が木目をかすめる。

爪が引っかかる。

けれど、強い風が背中を押した。


スマホがポケットから浮きかける。

パーカーのフードがばたばたと暴れる。

サンダルが片方、足から抜けた。


「待って、待って待って待って!」


叫んだ声は、風に飲まれた。


体が落ちる。


部屋の明かりが、頭上で小さくなる。

開いたドアが、四角い光の枠になって遠ざかっていく。


その向こうに、ローテーブルが見えた。

マグカップが見えた。

ミルクウォーマーが見えた。

ちょうどケトルが沸き上がりライトが点灯した。


こんな時なのに、なぜか私は思った。


二杯目、まだ淹れてないのに。


次の瞬間、耳元で轟音が弾けた。


空を裂くような音。

落下する体。

見知らぬ島。

遠くで光る銃撃。


そして、視界の端に文字が浮かんだ。


――降下開始。


私は、牛乳を買いに行こうとしただけだった。

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