第十六章第一節<Argokreuz the divinecity>
島のほぼ中央部に位置する都市、アルゴクロイツ。
重荘な建築様式の代名詞にもなっているその都市は、大小織り交ぜて十八の教会を抱える宗教都市であった。
もともとヒルヴァイロは自由宗教国家ではなく、れっきとした国教会が存在していた。だが、その国教会が政治に干渉することを防ぐための政教分離政策が早くから律法に明記されていたことから、アルゴクロイツが国の中心となることはなかった。
故にヒルヴァイロ国教会は法皇を抱くことない組織機構を有しており、数名の枢機卿からなる神会議という機構が事実上の最高位であった。
当初はその仕組みが健全に機能していたのだが、その枢機卿の地位に貴族院が接近を始めたことにより、国教会の方向性は急速にゆがみ始めた。その結果は、現在の枢機卿の一角に貴族院三冠の一人、ジェレミー・ヘイスティングスがいることからも推測できよう。
凄まじいまでの財力に依存した彼の暴挙を押し留めようとするには、人は欲望に弱すぎた。金銭という悪魔は、高位の司祭、司教、枢機卿等の精神を食い破り、蝕み続けた挙句、ジェレミーが実質的な最高権力を握っていると言っても良かった。さらに彼は私設の軍隊を教会機構の中に導入するということまでやってのけた。名前こそ、天遣聖徒団という麗しき文字が並んではいるが、もともとは彼の元に集っていた武具顕現の秘蹟能力者の寄せ集めであった。その軍力は、数による力というものを有しており、もし国教会が天遣聖徒団を展開した場合、軍務省の騎士団一つで相手をせねばならぬほどの潜在能力を持っているという事実が、ジェレミー退陣という政策を取れぬ所以であった。
そのアルゴクロイツに、足を踏み入れる男がいた。
黒塗りの馬車で国教会本庁へと赴いたその男は、従者の開いたドアの中から、のっそりと躰を起こした。
せわしなく辺りを見回しているその男こそ、君主書簡室長ジェイニーの前でしり込み、失笑を買ったあのニコラス・アーチャーであった。
昨晩に降った雨はまだ石畳を濡らしており、ニコラスは外套の裾が階段で濡れぬよう神経質に気を配りながら、本庁の階段を上る。天界での至福の時を彫刻に刻んだ鉄扉を押し開けると、中よりふわりと香が漂ってくる。
事前に連絡があったのか、ニコラスの姿を見るや否や、扉の近くに控えていた僧侶たちが一斉に頭を垂れる。緋色の僧服を纏い、錫を掲げた男が、僧侶たちの中からすいと進み出る。
「ようこそおいでくださいました。中央情報事務局長ニコラス・アーチャー殿でございますね」
頭上では、鎖で繋がれた香炉から神秘的な香りのする煙をゆっくりと吐き出している。間断なく、微かに響いてくるのは、どこかで祈りが捧げられているのであろう。
全てが荘厳さを醸し出してはいたが、ニコラスの心境は穏やかではなかった。
「あちらで猊下がお待ちでございます。さ、どうぞ」
通された先に、彼はいた。
ヒルヴァイロ国教会枢機卿、ジェレミー・ヘイスティングス。
その姿を一目見ただけで、如何にニコラスといえど、この男が信仰によってその地位に辿り着いたのではないことくらいは、すぐに分かった。
人の形をした皮袋に、肉屋のラードをありったけ詰め込んだような、そんな男であった。刺繍と紋様の鮮やかな服を身に纏ってはいたが、それよりも袖口から覗く手や襟元から伸びる首に視線が引き寄せられる。一体、どのような食事をしていればここまでの脂肪が蓄えられるのかと思えるほどに、皮は伸びきってたるんでいた。手首は骨の周囲をしっかりと脂肪の層が覆っているのか、ぶよぶよした水死体を思わせる不気味な肌色をしていた。そこから、芋虫のような五本の指が生え、さらにその一本一本には下品なほどに大粒の宝石をはめ込んだ指環をしていた。
ジェレミーは両手の指を膝の上で組み合わせ、満面の笑顔でニコラスを出迎えた。
「これはようこそおいでくださいました」
大方は愛想笑いであろうが、笑いのたびに頬の肉が揺れるその光景に、ニコラスは胸が悪くなる思いであった。
「さぞかしお疲れでありましょう……何かお飲みになりますかな」
ニコラスは、その申し出を断ろうと手を上げようとしたが、ジェレミーは元よりニコラスの意見など聞こうともしていなかった。手を止めることなく、背の高いグラスに葡萄酒を注ぎ、金で縁取られたそのグラスをニコラスの前に置いた。
無論、ニコラスは柔らかいクッションの椅子に腰を下ろしたまま、複雑な表情でグラスとジェレミーを見比べている。
ジェレミーはというと、自分のグラスにはなみなみと深い紫色をした液体を注ぎ、やおら飲み干した。
「それで、ニコラス様は何用でいらっしゃったのでありましょうか?」
問われ、ニコラスの躰には目に見えぬ漣が走った。
今、目の前にしているのは、いまだ力を及ぼし続ける貴族院三冠の一角、ヘイスティングス家当主。何か粗相があれば、そこにつけ込まれ、自分は任務を果たすことができなかろう。言いよどんでいるニコラスを前にして、ジェレミーの唇がつりあがった。
「この度のことは、誠に許しがたき所業でございましたな」
先手を打たれ、はっと顔を上げるニコラス。
「は……全くもって、考えもしません出来事でありまして……」
ニコラスは懐から取り出した布で顔の汗を拭う。
「それで、閣下はどのようなお考えで?」
「はい、既にラスケイピアより宣戦布告がもたらされ、軍務省をはじめ、殆どの機関が戦争に向かって、動き始めております」
「ほう、ほう」
ジェレミーの瞳が、肉食獣のように細められた。
「それは、人事ではありませんなぁ」
「しかし、我等と致しましても、猊下のお手を煩わせることは……」
このときには、既にニコラスも会話、交渉の主導権を相手に握られてしまっていることは、明白であった。
何がいけなかったのだ。このままでは、私は。
「アイアトン家には、聖十字騎士団の方がお見えになっていると伺っております。戦争には何かと出費がかさみますが故、我等としてもそうした援助には惜しまぬよう、お答えしたいのでね」
騎士団が国内にいまだ残っているなど、自分は聞いていない。ということは、残る二つの騎士団も、ラスケイピア侵攻をはじめていないのではないか。
急遽決定した聖十字騎士団残留の報を知らぬニコラスの頭の中は、確実に混乱していく。
「しかし、いずれ騎士団の方々は任務に赴く日が来るでしょう。そうしたときに、誰が国内の混乱を収めるのです?」
軍事力の欠乏。
近衛上級騎士団は、王宮警護のために遠征は不可能。残る省庁の持つ力では、これだけの広い国内で叛乱、暴動などが起きた際に、鎮圧するには時間がかかる。
「それは……」
「私ども、ですよ」
胸に手を当て、ジェレミーが柔らかい声色で答えた。
「私どもが、国内の混乱を収めてご覧に入れましょう」
狼狽するニコラスを前にして、ジェレミーは二杯目の葡萄酒を飲み干した。
「それでは、私どもヒルヴァイロ国教会は、フィリアゲートを防衛いたしましょう。これよりあと、外敵が隙を突いて侵入してこないとも限りません。歴史的にも価値のあるあの街が、心無き暴徒に破壊されるということは、耐えがたき損失です」




