間章ⅩⅤ<書の贄>
石組みの冷たい廊下を、明かりを持った人影がゆっくりと進んでいく。陰影は光を中心として伸び上がり、人影が近づくと身をすくめ、背を向けたあとは何事もなかったかのように安堵の息をつく。
なめした革を幾重にも張り重ねたブーツのため、人影は足音をさせずに進んでいく。
耳を澄ませば、僅かに衣擦れの音がするばかりで、ふと見るものが入れば幽鬼が彷徨っていると見紛うこともあろう。何故なら、人影は全身をすっぽりと覆うほどの長衣をかぶっていたせいであった。
だが、正面から見れば、フードの下からランプに照らされた顔を見ることが出来るだろう。血色の悪い顔と、げっそりとこけた頬、だがそれらに似合わぬ力を秘めた光を持つ、双眸。フラムスティード家長男にして文筆家で貴族たちの間では名の知れた、バベルという名の男であった。
貴族院三冠の一角を担うのだが、このところ、全くといってよいほどに連絡を絶ち、行方すら定かにはしていなかった。
だが、それも理由を聞けば頷ける話であった。バベルは自分の邸宅の一つに隠し部屋を見つけ、そしてその奥に膨大な量の書庫を発見したのである。もとより知識欲に関しては、異常とも言えるほどのものを持っていたバベルは、俗世を放り出し、その解読にやっきになっていたのであった。
そしてこの夜も、書庫の奥から発見された、鉄の封印の施された大仰な一冊を見つけ、それを紐解く誘惑に耐え切れなくなっていたのだ。
黴臭い回廊を進み、巧妙に隠された通路を抜け、そして辿り着いたのは、いまだ大半が埃に埋まっている、閉ざされた書庫。その一角は埃が払われ、人一人がちょうど座って作業が出来るだけの空間があった。
バベルはその隙間に身を埋めると、ランプを傍らに置き、あの書物を積み上げた山の中から取り出した。
改めて眺めると、それは奇妙な書物であった。
鉄格子は、書物が開けないように十文字にぐるりと囲むようにして封印してある。元々が、どのような目的で施されたのかもわからぬその鉄の封印は、今や歳月に蝕まれ、鍵も部分は錆び、朽ちかけている。少しでも力を加えれば、ぼろぼろと赤茶けた金属粉となって、外れてしまいそうである。革の装丁も、長い間手入れがされていなかったために乾き、ひび割れ、めくれ上がってしまっている。
ずっしりと重いその書物を膝に置き、バベルは懐から短刀を取り出した。
背表紙を見ても、書名すら綴られてはいないところを見ると、もしかするとこの世に一冊しかない類の稀覯本という可能性もありうる。高まる期待を堪え、バベルは短刀の柄を本に向けると、必要以上に傷をつけぬよう、鍵の部分に打撃を加える。
案の定、錆びの粉が舞い上がり、大きな亀裂が走る。
第二撃。ごとりと重々しい音がして、鉄の封印は床に落ちた。
長らく開かれることのなかったその書を前に、バベルは震える指で分厚い装丁をめくった。
紫の平原?
本に触れた瞬間に、バベルの脳裏にとある光景が閃いた。
目で見たのではない。唐突に思い出したかのように、頭の中に、奇妙な光景が浮かんだのだ。
しかし、紫の平原だと。
あまりのことに、思わず指を離してしまい、バベルは呆気に取られた。
だが、今の現象が、本に触れたことで起きたものなら。そうした奇妙な現象を起こすが故に、先祖が封印したものなら。沸き起こる好奇心に耐え切れず、バベルは再度表紙をめくった。
ふと、バベルは自分が全く別の場所にいることに気づいた。
暗く、黴臭い書庫にいたときから、どれだけの時間が経っていたのだろうか。
眠っていたような気もするが、しかし今こうして自分は立っている。見渡す限り、紫色の光が、漂う霞を不気味に照らし、四方に消えている。
目の前には、漆黒に光る奇妙な十字架があった。ぬらりとした光沢を持ち、剱の切っ先にも似た形状のそれに、女が一人磔にされているのを、バベルは見た。
そして、足元には死神のようなぼろぼろの布を被った者が一人。身の丈を越える大鎌を肩に担ぎ、じっとこちらを伺うように見据えている。
悲鳴を上げようとするが、喉から声が出ぬ。
まるで悪夢の中にいるような、己の躰が自由にならぬ感覚に苛立ち、そして。
「ほう、ほう」
声がする方角を見れば、そこには執事が一人、いた。
「これは新しい客人か。歓迎いたしますぞ、バベル・フラムスティード卿」




