第十三章第二節<Wizard in black>
エセル中将率いる聖槍騎士団と別れたのち、三名は昨夜と同じ丘の上を目指した。
赤い光によって、三人はほぼ時間感覚をなくしていた。充分とは言えないが、睡眠から覚めてまだ半日と経っていない筈であったが、既にアウレティカの顔には曇りがあった。
この光は、明らかに人の神経を惑わせる。
そのような効果があっての選択なのだろうか。これまで幾度となく繰り返し問うてきた問題を反芻しながら、丘へと続く斜面を上り出したときであった。
ふと先を見上げる視界の中に、黒い影が唐突に入ってくる。
どこからともなく現れたのではない。ここからでは逆光になって、詳細は見えぬ。が、かすかに吹いて来る風に長衣の裾をはためかせ、丘の先端からじっと先を眺めているその先には、あの禁断の地が見えているはずだ。
何者か。聖槍騎士団の手の者ではなさそうであった。
荒くれ者たちはいたが、あのような魔術師風の者はいない。
このまま立ち去るか、それとも誰何の声をかけるか。判断に迷うジュライの隣で、アウレティカが動いた。
足音をわざとさせながら、丘の斜面を上って行くその後ろ姿を、ジュライは考え事に集中していたために制止することができない。
「……すみません」
こちらが警戒を見せなければ、相手にいらぬ緊張を強いることもない。
そこまでを考えての行動かは知れないが、アウレティカの気配に人影はこちらに顔を向けた。視線が交わり、人影のほうがやや早く、声を上げた。
「おや、また会ったね」
「あなたは……えっと」
アウレティカもまた、記憶の中から男の顔を探し当てたようであった。
だが、名前が出てこない。男と出会ったとき、名乗らなかったために名を知らぬのは当然なのだが、アウレティカは懸命に記憶の引き出しをひっくり返す。
あとから小走りになって追いかけてくるジュライと結女もまた、男の顔が知ったものであることに気づく。
特に、結女はある特定の感情をも再生してしまったようであった。唇を噛み、瞳にあからさまな嫌悪感を宿したまま、男を見やる。
「これはこれは……フィリアゲートの酒場のご一行サマ、だね?」
「何してるのよ、あんた」
結女は腕を組み、男を冷たい視線で射る。
感情を隠さないその表情に、男は怒ることすら忘れ、笑い声を上げた。自分の敵意を躱された結女の頭には血が上ったが、それが感情の発露となるより僅かに早く、男は涙の浮いた目を擦りながら謝罪する。
「ごめんごめん、そこまで怒るとは思ってなかったんだよ。まあ犬に噛まれたと思って、忘れてよ」
「なんだかんだ言って、自分だってここに来てるくせに」
結女の言葉に、男は笑いを収め、そして背を向けていた森を一度、見た。
「そうだね、興味がない……といえば嘘になるな。あれは貴重な研究材料なんだ」
「<緋なる湖畔>がか?」
信じられない、といった口調のジュライに、男は自慢げに微笑んで見せた。
「危険はねえのかよ」
「もちろんあるさ」
頷き、そして目を輝かせる。
「だけど、危険だからって二の足を踏むようじゃあ、見つかるものも見つからないさ、そうだろ?」
確かに、男の言うことには一理ある。
ジュライもまた、世界こそ違えど、そうした信念は持ってきたつもりであった。それが剱の世界と、魔術の世界との違いだけ。
「それで……ここで、何をしてるんですか?」
アウレティカは質問をしたが、男はすぐには答えなかった。
「君たちは、あの湖が一体何のために、存在すると思う?」
男の問いはいささか尊大な態度ではあったが、問いの内容があまりに抽象的なもののため、それを咎めようとする者はいなかった。
三人が同様に、目を丸くしている表情を見て、答えが出せぬと考えたのだろう。
「まあ、いいよ」
男は肩をすくめ、そしてアウレティカへと向き直った。
「君はさっき、僕に質問をしたね? ここで何をしているのかを」
「……はい」
改めて切り出され、アウレティカは僅かに迷い、頷いた。
「<緋なる湖畔>が結界に包まれているのは知っているね」
「言い伝えだけはな」
ジュライが口を挟む。
結女も、詳しい話が聞けるとあっては好奇心に先刻までの憤りを忘れ、身を乗り出している。
「結界は人の侵入を阻むことはない。だけれども、一歩踏み入れたが最後、全ての記憶を失う」
「は……その程度のことなのか?」
「全てだ。全ての記憶を、洗い流されるようにして失うんだよ」
男は刃のような眼差しで、ジュライを見据える。
「昨日の記憶、この場にいる記憶、その程度なら問題はなかった。言葉、習慣、はてはどうやって息を吸い込むのかさえ……全ての記憶を失った者たちは、その場で速やかに息絶えたと言うけれどね」
男はジュライの意見を退けたことを確認すると、改めてアウレティカに視線を戻す。
「僕はここで、結界を巡る力の流れを見ていたんだ」
「力の流れ、ですか?」
聞き慣れない言葉をおうむ返しに問うアウレティカに、男は微笑んだまま、視線を丘の下に広がる黒い森林地帯へと向けた。
「ここから見れば、あの森をゆっくりと巡る渦が見えるんだ。訓練を積んだ魔術師にしか見えないけれど……渦は途切れることなく、森全体を包んでいる」
男が説明しているのは、魔術師たちだけが用いることが出来る、特殊な視力であった。
幻視とも呼ばれるその技能は、魔力の流れを視覚化することによって知覚するものであり、これによって魔術師たちは結界の存在や魔力の存在の有無、そして物質化する以前の状態の霊的存在などを察知、発見することができるのだ。目に見えぬ霊的存在、そしてさらに高位のエーテル存在である悪魔、天使などは、通常我々の存在する世界とは微妙にずれた場所に存在する。
故に、我々が持つ五官、特に視覚では捉えられないことが殆どである。
しかしそこで、特殊な訓練によって身についた視力を用いることによって、感覚を我々の世界から越えた部分へと届かせることによって、明瞭な映像として認識することができるのだ。
「渦がある、ということは、結界の存在は紛れもなく真実なんだ。でも……僕は一つ、疑問がある」
ちゃりん、と男の胸元で、メダリオンに繋がれた鎖が鳴った。
「忘却を強制する結界、そして森に包まれながら、<緋なる湖畔>という呼称……それらは全て、王室によって公表された情報であり、文献によるものなんだ」
そのことから、一つの仮説が導き出される。
アウレティカ、ジュライ、結女の視線が一点に集まる。男はたっぷりと間を置いてから、やがて口を開いた。
「あの場所に結界を敷いたのは、もしかしたら、王宮の魔術師なんじゃないかな?」




