第十二章第一節<Time of border>
「もうすぐだ、ここを上れば」
アウレティカ、ジュライ、結女の三人は、メロウの案内のもと、小高い丘へと続く道を歩いていた。
振り向き、声をかけてくるメロウに、ジュライは怪訝そうな表情を返した。
「こんな平原の中に、何があるってんだよ?」
メロウはその問いには答えず、ただ微笑みを浮かべるのみ。だが、その微笑みという表情は、メロウが騎士団の者たちと寝食を共にしているときには、決して見られることのない類のものなのであった。
結女もまた、そのメロウの変化を敏感に感じ取っていた。取り巻く空気が変わった、とでも言うべきか。恐らく実際にはありえぬことだが、メロウの心境の変化はこの暮色に染め上げられた大地においてすら、何かの変調をもたらしていると言ってもよかった。
常に俯いたメロウは、自分の周囲に人を寄せ付けぬ雰囲気を、鎧を着込むように自然に纏っていたのだ。それは知らぬ者を寄せ付けぬばかりか、彼女を知る者の加虐心を煽ることにしかならなかったのだ。
結果として彼女に近寄ってくる者は、彼女の心を踏み躙ろうという者しかなくなり、メロウは自ずから孤独という名の牢獄に身を潜めていたのだった。
そんなメロウであったのだから、今の自分の感じている心境が、忘れかけていた心地よさを与えてくれるものであることに、喜びを感じていることであろう。
他人と言葉を交わす、ただそれだけのことが、こんなにも心休まるひと時であったとは。
それにしても、とジュライは腰に吊った剱に視線を落とした。凶鳥との戦闘後、行動の束縛を受けると思っていた彼等に対し、何と武器の携帯は許可されたのだ。
ジュライの剱に結女の呪符。もともと、武器らしいものを持っていなかったアウレティカは変わらぬものの、これではあまりにも鷹揚が過ぎる。
いや、理由はあるのだろう。自分たちの秘蹟能力では撃退は困難であった凶鳥を、たった三名で壊滅させたのだ。その類稀な戦闘能力を、武器を没収してしまっては発揮させることは難しい。
また、あのような襲撃が起こらぬとも限らない状況下で、自分たちを最大限に活用するにはどうするか。
そしてまた、自分たちを対人戦闘の経験が薄いとも見ているのだろう。
魔物相手には発揮できる腕前も、人を斬るとすれば必ずや、鈍る。数においては圧倒的に有利な聖槍騎士団であれば、いざ自らに牙を剥いたとしても、鎮圧は可能であると踏んだのだ。
ジュライは胸の中で舌を打ち、丘を登る。
頂上に何があるのか。ジュライが到達するよりも早く、メロウの元へと辿りついたアウレティカが、感嘆の声を上げた。隣を歩く結女が興味を引かれ、足早に駆け上がっていく。
「おい、ちょっ……」
追いかけるように、ジュライも丘を上り。
そして、眼下に広がる光景に、息を呑んだ。
その丘は、頂上から先は何かで抉られたように切り立った岩壁に道を遮られていた。地平線が見渡せるほどではないが、高所から平原を見下ろす格好になる、その場所。
一面、紅に染め上げられた大地に、墨汁を滴らせたように、黒く広がる森が見えた。
この場所から、森まではかなりの距離があるに違いない。それでもなお、黒い森の広がりは壮大であった。
だが、詳細は見て取ることは出来ない。永遠に続く紅の光の中では、今自分の目の前に広げてみた掌ですら、輪郭は幻のように薄く霞んでいるのだ。
この場所では、確かなものなど何一つない。
まさにそう言わんとしているがごとくに、昼と夜との境界線のみが見せる不可思議な時間の狭間で、森はただ黒く、巨きく、その領域を抱き続けていた。
「あの森……分かるだろう?」
メロウに問われ、ジュライははっとなった。結女は光景から目を離せずに、メロウにそっと、尋ねる。
「<緋なる湖畔>……ね?」
「ああ」
「だけどよ、あれじゃ、どう見たって……」
森じゃないか、と反論しそうになるジュライに、メロウは頷いた。
「そうよ、だけどあれは、紛れもなく、我々が<緋なる湖畔>と呼んでいるものなの」
「どうして、湖があるってわかるんですか?」
アウレティカの問いは、ジュライの疑問を最も率直な形で表現したものであった。だがそれと同じものを、結女も感じていたのだ。
「そう、誰も見た者はいない。ただ、そう伝えられているだけ」
誰も、その答えに口を開く者はいなかった。
ただ、そう伝えられているだけ。自分たちはそれを盲目的に信じ、<緋なる湖畔>を勝手に想像していただけだったのだ。
あの森の中心に、湖はあるのか。
あるかもしれないし、ないのかもしれない。
だが現実に、あの森に近づこうとする者は、無残なまでに記憶を奪われ、死に至るのだ。自分たちに与えられているのは、その一片の事実だけ。王宮魔術師ですら解明できぬ、忘却の結界を巡らせたあの地には、何があるのか。
「<緋なる湖畔>、あの地は……我々が触れてはならぬものなのかもしれんな」
びゅう、と吹きつけ、メロウの髪を揺らした風は、確かに夜の冷気を含んでいた。
恐らく、あの地には何かがある。
しかしそれを見つけることが、今の自分たちにはできるのだろうか。
使いこなせぬ代物など、いっそ手に入らぬほうがよい。
まだ見ぬ力を求め、今の自分のいる場所を見失うくらいなら。
それは、いまだ手に入れる資格のない力なのだ。
だが、クレージェントはそうは考えてはいないのだろう。
自分の持つ意見は、気の弱い者の保身と失笑されるだろう。
それが、歯痒い。人が支配できぬものもあるのだと、何故分からぬ。これまで、幾度となく繰り返してきた問いに、メロウは溜息をもって、思考を中断する。
「もう、夜も更けてきているだろう……戻るか」




