第十章第二節<Legacy bureau>
酒場は、紅に近い赤光に染められていた。
さして広くも無い店にいる客は、全部で三人。うち二人は、この村の住人のようであった。
二人とも男であり、また、無口なまま閉ざされた唇の奥で、歯は固く噛み締められていた。口元には苦渋を味わった皺が深く刻み込まれ、男たちは無言のまま、コップを傾ける。
テーブルの上には、赤い光のためか、赤銅色の影が長く伸びていた。カウンターの奥では、店主が腕を組んだまま、俯いて座ったまま動かない。時すら静止したかのような、辺境の村の酒場。
窓から差し込んでくる赤い光は、一面に鮮血のように広がっている。
そんな酒場のさらに奥に、一人の男がいた。いや、その顔からすれば、男というよりは青年という部類に入る年頃であろうか。
癖のない髪は額にかかるほどで、無造作に切られていた。色の白い肌と、薄く鋭い刃物を思わせる唇。白銀の外套は丸められて傍らの椅子の上に置かれており、青年が身につけているのは、黒く裾の長いシャツであった。襟元には装飾をかねてあしらわれた金色のボタンが並び、それは腹の辺りまで一列に続く。そこからまるで燕の尾のような裾が、前と後ろに同じだけ垂れ下がっていた。
青年は、目の前のテーブルの上に置かれたコップには手をつけず、微かに笑ったまま、窓の外をじっと眺めていた。頬杖をついたまま、眺める青年の視線の先には、あの禁忌なる地があった。
青年は、コルブレイズ・エルファージという名であった。遺産管理局において、優れた魔術技能を持つ者である。
コルブレイズがこの村に到達したのは、昨夜遅くになってからであった。道に迷うことは無かったし、また夜道の旅はそれほど危険でもなかった。
この地は、たとえ新月の夜とはいえ、光が失われることはない。あの禁忌なる地から放たれる夕暮れ時のような光は、昼夜を問わず、周囲に投げかけられているのだから。
しかしそれゆえ、人々はこの地を嫌う。
口ではどう説明をしようが、やはり人とはいえ、動物なのだ。朝に起き、夜に眠る生活を営む以上は、あの光は邪魔でしかなかった。精神を掻き乱し、狂わせ、情緒を揺さぶるその光に、人々は不吉な色を重ねた。
だが人の寄り付かなくなったこの地に、敢えて居を構えようとする変わり者も少ないが、あった。この村は、そうした人々によって作られた集落であったのだ。
人が近寄らないのは、光の所為だけであった。
それに、禁忌なる地には、潤沢な土壌があった。たとえ近づくものの精神を蝕む障壁が張られていようとも、自然の滋養までは遮断することは出来ぬのだろうか。
境界線ぎりぎりの部分の土地を耕すこの地は、いくらか減じられているとはいえ、豊かな大地の滋養を享受することができていた。
作物の出来には、文句はない。この地に住むようになってから十年以上、まだ決して長いとはいえないが、不作であったことは一度としてなかった。
だが、この地に住む以上は、強靭な精神を持たなくてはならぬ。
目を覚ます直前から、眠りに落ちる直前まで、一時も途絶えることなく、瞼を通して差し込んでくる赤い光に、心を乱されぬ者だけが、この地に居続けることが出来るのだ。
しかし、少しでも光から逃れようとしているのか、村があるのは丘陵地帯の中で、ぐっと大地が窪んだ場所に構えられていた。
普通ならば水はけの悪い土地は畑には適さぬのだが、ここは違ったからだ。
コルブレイズは、じっと赤い光を放つ方角を見やったまま、動かない。
決して目を射ることのない、そして光源が定かではないその、不可思議な光。それが大地に近いところから発せられていることを、コルブレイズは発見していた。
何故なら、空を流れる雲の腹だけが、赤く血を塗ったように染め上げられている所為であった。雲の腹が染まっているということは、光源は雲それ自体よりも、下にあるということになる。だがそれがいったい何処なのか、そこまでは判別ができなかったが。
この世に、絶対的なものは何一つ、存在しない。
あの光の下へ、そして<緋なる湖畔>に到達する道は、どこかにあるはずだ。コルブレイズは、やおら手を伸ばすと、テーブルの上に乗ったコップを掴み、中身を喉へと流し込んだ。強いアルコールが食道を焼きながら、胃の腑まで伝い落ちる感覚に、コルブレイズは意識を覚醒させる。
赤い光の中で、強く見開かれたその瞳は、村人とはあまりにもかけ離れた力を宿していた。燃え盛る焔のように、鋼のように堅固な意志を持つ、瞳。それは、魔術師ならば誰しもが持っているであろう、強靭な精神力を示すものであった。
丸めた外套を手に取り、コルブレイズは懐から銀貨を二枚取り出すと、それをカウンター越しに主人の前に置いた。硬貨の触れ合う金属音に、顔を上げた主人と、コルブレイズの視線が交わる。
疲れた目だ、とコルブレイズは直感した。疲弊の極みにある者の目。
生気は無く、見下ろしていると乾いた象牙のようにも見える。そして何より、感情がない。
外の世界からの刺激に何等反応を示すことなく、決まりきった動きしかすることはない。魔術によって、偽りの生命を吹き込まれた泥人形を相手にしているようだ、とコルブレイズは唇を笑みに歪める。
『……やっぱりね』
あからさまな、侮蔑の嘲笑を前にしても、主人には感情の揺れすら見えぬ。恐らく、この場で短刀を抜き払い、殺すと脅したところで、主人はじっと感情の宿らぬ目で自分を見つめ続けることだろう。
いや、喉を裂けと命ずれば、何のためらいもなく、肉と皮膚を掻き切るのかもしれぬ。
時間にして数秒。
主人はコルブレイズから視線を外し、カウンターの上の硬貨を拾い上げた。何かを口にしたのだが、それが何であるのかは聞き取れなかった。
気に留めるでもなく、コルブレイズは酒場をあとにする。
外に出ると、光は心なしか、強まっている気がした。
コルブレイズの前を、一人の女が通り過ぎた。生活に疲れている表情は、何処の村に行っても同じであった。皺が刻まれ、腰が曲がり、肌も日に焼けて荒れほうだいであるのに、実年齢は二十歳前後であるなど、珍しくも無い話だ。
だがこの女も、酒場の主人と同じ目をしていた。
ちらりとこちらに一瞥をくわえただけで、別段興味をそそられた風でもなく、歩き去る。コルブレイズは呼気を短く、鋭く吐き出すと、外套を肩に羽織った。
「さて、そろそろ行くとしようかね……オーウェンをいつまでも焦らしてても、面白くないしな」
第一部 完




