第十章第一節<Elementalist>
肘掛け椅子に身を沈めたゾットールは、長く深い溜息をついた。
彼の前の机に広げられているのは、一枚の書類。それにはクレージェント王国紋章が金箔をもって烙印されており、政府発行の公文書であることが一目で知れた。
この類のものは、日に何十通となく、彼の元へともたらされてくるものであった。
取り立てて重要視するわけでも、また緊張を促すものでもなかった。だが今回の書類ばかりは、ゾットールの双肩に重くのしかかる重圧を伴ったものであった。
聖槍騎士団への呪術攻撃。それを逆探知した呪務管理局は、ヒルヴァイロ領内に干渉してきた霊的波長の発信された場所を、ワルキュリエ共和国内フェリシア領内某所と確定したのであった。
その情報を受け、ゾットールにはその稀代なる精霊魔術の手腕から、魔術防衛の一角として、呪務管理局への緊急出頭を命じてきたものであった。
ゾットールの心を締め上げているものは、出頭それ自体ではない。相手が問題なのであった。
ワルキュリエ共和国。
そこには、夢幻王という名の大いなる魔族と戦っている間、後方支援を行ってきた武将、ロベルティーナ・フォン・アルフェリアが建国した王国ではないか。
彼女の意思を継いだものでなければ、その領主となることは出来ぬことは有名である。その臣下の一人が、まさかクレージェント王国に対して、こうした魔力干渉を行ってくるとは。
相手の考えが読めぬ。いや、それ以上に、相手への狼狽が心を掻き乱す。
ゾットールは瞼を閉じ、鼻梁を指で摘んだ。
たとえ大いなる魔が現れずとも、人というものは絶えず戦乱を求めていなければいられぬ性なのであろうか。
あれから三十年。その間にも、小さな小競り合いが無かったとは言わぬ。
だが、今回の一連の事件は、充分に大陸レベルの戦争を勃発させるに足る混乱ぶりであった。
恐らく、これに関与しているのは、フェリシア領主だけではあるまい。
それは氷山の一角に過ぎぬ。奥にはもっと、複雑巧緻な網の目を張り巡らせた、本当の黒幕がいる。
まず目的は、<緋なる湖畔>。あの禁断の地が、それほどまでに欲しいのか。
再び戦火と無益な流血を誘う呼び水となるか。教皇領という、半島一つを壊滅させた代償を支払いつつも、年月と共に己の犯した過ちを忘れ、再度嘆きをもたらすというのか。
恐らく、ゾットールが召喚を受けた呪務管理局においても、やはり軍事的防衛的見地からの、呪的防禦の手段、対策を練るというものなのであろう。
精霊の力を借りて、術を施す。かつて一族が執り行ってきた精霊魔術機構からすれば、考えられぬ状況であった。
森の住人という異名を持つ精霊族の血を半分受け継いでいるゾットールにも、それは充分すぎるほどに分かっていた。精霊魔術とは、精霊との共存意識から生まれた、相互協力を一定の技術規範に当てはめたもの。そこには精霊側への奉仕が不可欠であり、またそれゆえに精霊族は恩恵を受けることが出来たのだ。
だが、今ではどうだろうか。精霊を、自分と対等、いや高位の存在として見る視点は失われ、ほとんど目的を達成するための道具としてしか扱わなくなってしまった。それだけではなく、精霊の存在構造を解析し、相互契約なく力を生み出すことが出来るような、人為的かつ一方的な契約儀式を行い、精霊は搾取される側となってしまった。
こんなことが、術師に許されるはずがない。ゾットールはじっと、テーブルの上の書類に視線を落としながら、それでもなお、政治というしがらみに囚われている自分を、見つめていた。
そして、かつて何度も思い返した名を口にする。
「お前も、同じことを考えていたのだろうな……ターラエ」
若き日、将来を約束し会った女性。博学さと、生来の魔力ゆえ、彼女は高位試験にも合格し、ついには光龍結界の護り巫女にまでなった。
ターラエと別れたのは、アルティーナ私立精霊技術大学第一種対霊式交信考査に、首席で合格した日の夜。
彼女の卓越した精霊の力に、ゾットールは嫉妬していた。彼が放ったのは、合格をねぎらう言葉ではなく、妬みと焦りから生まれた罵倒。
僕を置いていくのか、と言う言葉に、ターラエは悲しみに満ちた瞳で応えた。精霊族との混血として、精霊力に恵まれなかったゾットールは、ターラエと対等でいられなくなるのではないか、と困惑していたのだ。
そのときの彼女は、同じことを考えていたのではないだろうか。
技術として縛られた精霊魔術。その高みを目指そうとすればするほど、かつて営んだ精霊との関係からかけ離れていく。そして、レイトナー家に生を受けた者として、彼女は精霊魔術を極めなければならなかったのだ。
己の心とは相反する人生。そんな中で、足元の確かさすら確証できない中で、ターラエはゾットールの支えを必要としていたのだ。
いくら謝ったところで、もうそれは何の意味もない。もう、ターラエは生きてはいないのだから。
いつしか回想に入り込んでしまったゾットールは、組んだ指を額にじっと当てたまま、俯いていた。
そのとき、部屋の扉が小さく控えめに二度、ノックされる。
「あの、約束はないのですが、お会いになりたいという方が……」
「どうぞ」
ゾットールは、あまり考えずに入室を促した。相手が誰であるのか、そんなことはどうでもいいことであった。
ほどなく扉が開き、一人の初老の男性が足を踏み入れてきた。
無言のまま。
ゾットールは視線を上げ、黙って男を見つめていた。
しばし男はゾットールを検分するかのように見つめたあと、唐突に革の袋を投げてよこした。あなたは、と誰何の声を発するよりも僅かに早く、男が口を開いた。
「一度売ったが戻ってきた。人間にはうまく使えんらしい」
何を言っているのか、ゾットールにはとんとわからなかった。
だが、その古ぼけた革の袋を開いた瞬間、彼の目は大きく見開かれた。
中に入っていたのは、かすかに光沢を放つ球体が全部で五つ。
「どこでこれを……」
そこまで言いかけて、ゾットールの脳裏には過去の記憶が蘇えってきた。
「金を返せとは言わん、ゾットール・ニ」
名を知っている。それも、改名以前の名を。
「忘れたか? 一文無しのお前から、その精霊の宝珠を買ってやった恩をか?」
思い出した。
ずいと男は袖をまくり、手首から肘までには、黒い刺青があった。
男の名は、カナン・バーツ。




