第九章第二節<Dream of night>
その夜、結女は夢を見た。
いつごろの記憶か、そこまではわからぬ。はっきりしているのは、それが東国にある、自分の育った屋敷であったということだけだ。
父の星がいた。母の菘がいた。兄の信濃がいた。
家族が揃っている、それだけで心から落ち着ける、そんな春の日の夢であった。
庭に、大きな桜の大木があった。
何故か、夜。兄の信濃は、巨木の下に立ち、満開の花を見上げていた。
黒い羽織に白く染められた桔梗紋。どうして、こんな夜中に正装なんかしてるんだろう。
板の間から寝巻き姿のまま這い出てきた結女は寝惚け眼を擦りながら、信濃を見ていた。
漆黒の空に、花弁が舞うように踊るように、風に弄ばれていた。
風には、豊潤な香りがあった。湿った土の放つ、生命の息吹。まるで冷え固められた、凍った大地が春の温もりに誘われ、ほうと溜息をついたような。
「……信濃兄様?」
声が届いているのか、いないのか。
信濃はこちらに背を向けたまま、黙って掌を開いた。その上に、風の只中、ひとひらの花弁が舞い降りる。
途端、結女は激しい焦燥感に襲われた。
兄様がいなくなってしまう。私の目の前から、そしてこの家から、兄様が姿を消してしまう。
「兄様!」
寝乱れた髪のまま、結女が庭に下りようとしたときであった。
「止めてはいけませんよ」
背後から、母の菘が優しい口調で、しかしきっぱりと制止する。
「どうして!?」
狼狽する結女ではあったが、自分が何故これほどまでに焦っているのか、その理由もわからない。
「信濃は、地を鎮めるのです」
母の顔だけが、見えない。暗いのか、それとも他の理由があるのか。
「西で起きた災いが、ゆっくりとこの地にも伝わってきている……信濃は、それを鎮め、結界を張らねばなりません」
「お父さまは!? お父さまは、どうしてなさらないの!」
それほどに、大きな仕事であれば、たった一人で、しかもまだ未熟な兄様一人で、どうにかなるとも思えない。兄様が何処かへ行ってしまおうというときに、お父さまはどうしているのか。
「星様は、既に西へと向かわれました」
聞いてない。お父さまが旅立ったなんて、あたしは聞いていない。
「うそ!」
「嘘では、ありません」
菘が短く、言い切ったときであった。信濃の躰を包むように舞い降りていた桜の花びらが、突如として呪符へと変わる。
「あっ」
自分が、いつも使う符ではない。
いつもなら、黄色い紙片に墨汁で文字を書く。
それなのに、あの符は、黒なのだ。
ぐるりと囲んだ符の中央で、兄様が身を固くする。
囚われているのだ。あたしが、助けに行かなければ。
「兄様!!」
脱兎の如く、足に纏わりつく衣を蹴り飛ばすように、庭へと飛び降りたときであった。
視界が一瞬、黒く遮られた。それが革の手袋をはめた人の手であると気づくのに、僅かではあるが時間を要する。
自分の背後に、いつの間にか一人の青年が立っていた。髪の色、目の色からして、東の国の人間ではない。
「邪魔をしないでくれ」
振り向くと、青年の顔がすぐ近くにあった。母の顔は見えなかったくせに、青年の顔は明瞭に結女の瞳に映った。
端整なつくりの、美しい貌であった。
唇が微笑みを象ったとき、結女は意識を失った。




