間章Ⅷ<ジェシカの壁>
聖槍騎士団が霊的攻撃を受けたという報告は、騎士団の伝令隊がクレージェント王都に到着するよりも早く、人々に知れ渡ることとなった。
情報を掴んだのは、中央情報事務局長ニコラス・アーチャー。その名を聞いたものの反応は、大きく分けて二つであった。
あからさまに落胆の溜息をつく者と、嗜虐的な笑みを浮かべる者と。
というのも、この情報により責任の所在を追及される者の名が、問題になるのではあるが。
情報の内容は、以下の通りであった。
ヒルヴァイロ国外より呪的干渉の警告があり、その直後に領内において何等かの術式媒体を仲介として、使役獣魔が実体化したというものであった。
通常では、およそこのような事態は考えられなかった。何故ならば、ヒルヴァイロ領周辺地域には、「ジェシカの壁」という異名を持つ、魔術障壁が恒常的に組成されているためであった。
その名の由来は、知らぬ者のほうが少ないと言われた、クレージェント建国史の冒頭を飾る魔術師の名である。
ジェシカ・ウィンターズ。
稀代の魔術師として、幾人もの騎士や聖職者らと名を連ねる彼女は、伝説的な人物とも、熱狂的な支持者からは実在の人物だとも言われている。
建国史の中において、彼女は国一つを覆い尽くすほどの、壮大で強固な魔術障壁を張ったのであった。
事実、その構造はいまだに解明されてはおらぬまでも、領海内において障壁は確認されていた。伝説の事実性ははなはだ疑わしいところも多かったが、国一つを覆いつくし、また数十年を経てもなお消え去る気配すらない障壁の存在は、一部の伝説を支援する人々の、格好の理由付けとして利用されているものであった。
それは現代に至るまで、たびたび歴史書に姿を現しているにもかかわらず、現在でもなお低級な術は遮断するだけの実用性は秘めている。また、対抗呪式の判別、属性決定さえ可能であれば、しかるべき所作にのっとって障壁を強化することも可能であり、またそれを利用して、ヒルヴァイロは戦火の多くを免れてきたのであった。
そして、その障壁を管理しているのは呪務管理局であり、総責任者はオーウェン・ファーニヴァルその人であった。
ニコラスは、その軽率な言動と浅はかな思慮から、たびたび失言を重ね、幕僚たちの失笑の的となっていた。特に、ニコラスを煙たく思っているのはオーウェンであり、今回の情報は、それまでのオーウェンによって加えられてきた侮蔑にしたたかな返礼をくらわせてやるには充分すぎるものであると言えた。
人々の半分は、あの自尊心の塊とも取れるオーウェンの答弁を期待し、また半分はよく切れる剱を使いこなせぬのではないかとニコラスにさらなる侮辱を浴びせていた。
結果はどうあれ、その情報は会議が開かれるよりも早く、幕僚たちの知るところとなった。
そして、騎士団が襲撃を受けてから二日。王宮内の会議室において、緊急会議が催されたのであった。
ニコラスは、自分がもたらした情報が持つ影響力と意味を、十分に理解しているようであった。
王宮内の一室で執り行われた会議が始まると、ニコラスは興奮に震える声を懸命に制御しようとしつつ、用意された文書を読み上げた。朗読が進むにつれ、人々の視線は何度も顔の汗を拭うニコラスと、そして正面に座るオーウェンとの間をせわしなく行き来していた。
だが、オーウェンは朗読の間も、終わってもなお、指をしっかりと机の上で組んだまま、微動だにせぬ。
「……それでは、呪務管理局長オーウェン・ファーニバル」
議長として立ち会っているのは、王国近衛親衛隊、金鷲騎士団元帥クリストファー・ランデルマン。厳格な教師のような表情と、梳られた灰色をした頭髪が印象的な、禁欲的な男であった。
指名され、オーウェンはやっと組んでいた指を解いた。
数秒間の沈黙ののち、静かに、重々しい声を解き放つ。
「ジェシカの壁が突破されたことは、こちらでも観測をしておりました」
その言葉は、会議に列席した人々をざわめかせるには充分に過ぎた。解釈によっては、オーウェン自らがジェシカの壁を故意に弱体化し、侵入してきた呪力に道を開けたともとれるからであった。
「それは、どういう意味かね」
「魔力を帯びた呪符による、代理使役呪術。それが今回、騎士団と交戦した相手の魔術の正体です」
「そのようなことを、元帥殿は聞いておられるのではない!」
たまりかねたニコラスが声を張り上げる。その不快なまでに甲高く響いた声に、オーウェンは眉間に皺を寄せ、そして黙殺する。
「呪符魔術は、解呪すれば呪符は施術者の下へと帰還しようとします。それはこちらの手の内を送り届けるようなもの、故に敢えて通過させ」
「騎士団を危険にあわせてもか」
「それにつきましては、弁解なく謝罪を致します」
しばらく黙考したクリストファーは、ややあって、首肯した。
「魔術に関しては一日の長があるオーウェンの主張にも一理はある。だが、その主張を通すには、一つ、提出せねばならぬものがあるだろう?」
固唾を呑んで見守る中、オーウェンは唇をにやりと歪めた。
「呪術発動位置は、既に確認が取れております。あとは糸を手繰り寄せれば、わが国の領域侵犯の罪を問うことは、充分に可能でしょう」




