↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新編 Nostalgia Episode7  作者: 不死鳥ふっちょ
第一部  Eternal twilight dominated all of the island.
PR
31/61

第八章第一節<Knight of twilight>

 いつから、視界から空が消えたのだろう。


 私の目に映るものは、石床や陰った草原、そして雑踏の踏みしめる往来。その中に、忙しく行過ぎる者たちの靴だけが、交錯している。項垂れた首は、まるで罪科を問われ、戒められた重い鎖をかけられたかのように、持ち上げられることはない。


 最後に空を見たのは、いつだろうか。


 涙を隠すためにではなく、空を見たのは。


 草原の一角に無数に並べられたテントの合間を縫うようにして、一人の女性が歩を進めていた。


 緩い波を持った黒髪を肩まで伸ばしており、やや俯き加減に伏せた横顔には、反り返った睫が陰を落としている。唇に紅も差さず、髪を結うこともないその女性の横を、折りしも二人連れの男が通りかかった。笑いに上体を逸らしながら、なにやら内輪話に盛り上がっていた二人のうち、片方が前を歩いてくるその女性に気づく。


 肘で小突き、隣の相棒になにやら耳打ちをするその口元が、下卑た歪みを形作る。


「おいおい、こりゃあガーネット様じゃねえか、ほら急いで土下座でもしねえと首を刎ねられるぜ」


「馬鹿言ってんじゃねえよ、上手くすりゃあ今夜テントに呼んでもらえるかも知れねえんだ」


 ガーネットと呼ばれた女性は、表情を変えずに歩き続ける。


 意図的に視線を合わせぬようにして。


 もう分かっている。このような罵倒には、慣れているはずなのに。


 二人の男の野次を歯牙にもかけず、女性は足早に立ち去ろうとしたときであった。


「……無視かよ?」


 背後から、男の野太い声が舌打ちの音とともに聞こえてくる。


 どくん、と鼓動が不規則になるのが、自分でも分かる。


 心なしか、歩調が早くなったときであった。斜め後ろから、何か粘質なものが投じられ、首と髪、そして頬を汚した。


 手を当てるまでもなかった。泥が混じった馬糞の臭気が、つんと鼻を突く。


 男たちは好き勝手な言葉で罵りながら、振り返ることなく立ち去っていった。


 ぎり、と奥歯が軋むほどに噛み締める。鼻腔の奥に刺すような痛みを感じたが、その誘惑には屈せずに、女性は馬糞と泥を叩き落とした。


 名は、メロウ・ガーネット。この聖槍騎士団に所属する、騎士の一人であった。


 謂れのない罵倒と差別、そして嫌がらせは、既に彼女の日常の中に組み込まれているかのように繰り返されていた。


 そして、その原因となるものが何でもあるかも、知っていた。


 私が、望んで手に入れたわけではないのに。恐らくそこには、女性であると言うことも含まれているのであろう。自分の意思や意図を超えたものに起因する差別ほど、屈辱をかきたてるものはない。そして、感情の昂ぶりによって、溢れてくる涙もまた、今のメロウにとっては忌避すべきものであった。


 差別を受け、嫌がらせに涙を溢れさせる姿は、男たちにさらなる加虐心を燃え上がらせる以外に、何の役にも立たない。






 疎ましい。自分を取り囲む、唾棄すべき男たちが。自分に与えられた、この力が。


 そして、何よりもされるがままになっている、自分自身が。


 軍隊を辞め、今の地位を何もかも捨てようと考えたことは、幾度もあった。


 だが、そのあとはどうする。軍隊を抜けたとして、同じような境遇が待っていないという保証はない。


 自分の居場所も見つからず、繰り返される侮蔑にただ耐えるしかない毎日に、メロウは疲れきっていたのだ。


 糞の匂いは、恐らくは洗い流さねば落ちない。だが自分のほかに、ここには女はいない。


 陵辱されることはないにせよ、男たちが定期的に水を浴びる習慣があるとも思えない。人目を偲んで水浴びをしてもいいが、そのような隙を見せれば、服を隠されたりしないとも限らない。


 匂いに慣れるまでは、我慢するしかないが、髪くらいは何処かで濯ぎたい。


 そう考えたメロウの視界に、一つのテントが飛び込んできた。他のテントと大きさや色などに違いはなかったが、その近くに武装した男が二人、衛兵のように立っていた。


 自分が話しかけても、満足な答えが得られないのは分かっていた。


 分かってはいたが、抑えられない好奇心のほうが強かった。空はもうすぐ夕暮れを迎える時刻であり、西の空は紅蓮に燃えていた。あちこちでは既に火が炊かれており、ぱちぱちと薪の爆ぜる音がする中、衛兵はメロウが話しかけるよりも早く、その姿に気づいた。


「何のようだ、貴様」


 予想通り、その言葉には針のような敵意が込められている。


「いや、そのテントは、何が……」


「帰れ、貴様には関係のないことだ」


 完璧なる拒絶。だが、不思議とメロウはそのときに、踵を返すようなことはしなかった。


「少しだけでいい、中に何があるのか教えてくれ」


 今度は、返答はなかった。篭手をつけたままの拳で、どんと躰を押された。


 視界が揺れた。


 どこかで、男の叫ぶ声がする。


 はっとして後ろを振り返ると、衛兵自身もまた、緊張を身に宿す。一度目は聞こえなかった声が、今度ははっきりと耳に響いた。


「襲撃、襲撃だあああッ!!!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。