間章Ⅶ<黒鴉>
眠るように、石の台座に腰を下ろしていたままの、男の瞳が開いた。
苔生した、緑森の王座とも見紛うばかりの、一際高い背もたれに身を沈めていた男、刻紫は、ゆっくりと瞼を押し開ける。
この地に足を踏み入れてのち、刻紫は幻視によって写本の動向を探っていた。
所在はいまだ判明せぬ。
しかし、写本を巡って魔が蠕動し、覚醒した波動は、しっかりと刻紫の知覚するところとなっていた。
王都ハルクースト、東享、オールマイア、ラスケイピア、ヴァライア。
そして、クレージェント王国。
次々にもたらされた写本による災禍は、容赦のない楔を次々に世界の壁に打ち込み、その存亡すら危うくさせるに至っていた。
邪神の再臨を目論む夢幻王が失墜し、神々は大戦による傷を癒し。
完全に、縛鎖から解き放たれ、何者の支配からも脱した写本は、今や完全なる自我を取り戻している。
所有しているのは、一体誰か。既に七つの写本のうち、幾つかが融合し、他者をも圧倒する魔の瘴気を噴き上げながら、虎視眈々と狙っているのだ。
己を生み出した、魔術師ラウローシャスを。
この世にその存在を許しながら、同時に滅しようとした、あの男を。
写本は今や、神へ刃向かう最も恐るべき存在として、連立世界の狭間に荒れ狂っている。
一刻も早く、本来の力を取り戻させることなく存在をかき消さねば、世界の因果律は永久に失われる。ただ破壊と復讐にのみ駆られた写本の負の魔力の奔流により、世界は世界としての形状を保てなくなる。
写本は己が滅ぶことへの恐怖など、恐らくは微塵も感じてはいないのだろう。
当然だ。神を殺すことに成功したとすれば、写本に不可能なことは何一つ、ないのだから。その力によって、己が秩序の支配者となり、新たに複雑かつ緻密な連立世界を、次元の断片から再構成することなど、訳はない。
「神は偽り…世界の破滅を導いた隻眼の大魔術師は、そう言い残した」
「誰だ!?」
勢いよく、刻紫は立ち上がった。
無意識のうちに、石のテーブルに投げ出した剱の柄に手を伸ばす。
胸に提げた、焼き物の十字架が跳ね上がり、こつんと戻ってきたとき。
目の前の緑の壁の隙間の下から、ぞわりと闇が滲み出してきた。
肌を打つような強烈な魔力。しかしそこには一辺の敵意も悪意も込められてはいない。
正体の掴めぬ刻紫の前で、闇は霧となり、凝り、像を結ぶ。
黒いコートを羽織ったままの、壮観な男。しっかりと填めた黒手袋には、この時代には存在しえぬはずの遠距離攻撃道具が握られている。
それは実体化と同時にずるりと溶け崩れたが、大地に滴ることなく、男の手の中で形状を変える。丈一メートル半にも及ぶ、長大で肉厚の黒い大剱。
「古き書に我を記すものあり、即ち黒き武神、数多の従者とともに悪夢を導き去る、その名は<黒き魔刃>」
深い紅をした瞳孔を持つ男は、剱を背に戻しながら、刻紫を見た。




