第七章第一節<To the North>
翌朝は、灰色の天蓋が頭上に満ちた、薄暗い天気であった。
日が昇る時刻になっても、雪を降らせる分厚く暗い雲は陽光を通さず、厳しい関門を潜り抜けてきた疲れ切った光は、大地に温もりを与えるという使命すら忘れ、冷え切った朝霧の中で四散していた。
大学から戻った二人は、あれからそれぞれの部屋に戻るものの、一睡も出来ずに朝を迎えていた。だが頭は異様に冴えたままであり、昨夜の戦闘による興奮状態がずっと続いているようでもあった。薄暗い宿の食堂で朝食のスープとパンを前にして、アウレティカだけが昨夜の事件を知らないでいるままであった。
「これから、どこへ向かうんですか?」
人参と鶏肉の浸されたスープ皿から顔を上げ、アウレティカが尋ねた。
少し乾いたパンを千切って口に入れていた結女は、口中のパンを飲み込むと笑って見せた。昨夜の喉の痣が見えないように、結女はハイネックの防寒のシャツを着込んでいた。
「当然、このまま北上するわよ」
このまま北上、と言う言葉に、アウレティカは怪訝な顔をした。
というのも、フィリアゲートに向かっているときに峠から見た風景には、フィリアゲートの北には水平線が広がっていたためであった。
これより先は、海路となるのだろうか。アウレティカの知識の中には、それ以上の地理的なものはなかった。
「北、つっても、実際には迂回するんだけどな」
木の匙を持ち上げて、ジュライはぐるっと反時計回りに弧を描いて見せた。
「だって、峠から見た先には、海しかなかったのに?」
「海じゃねえ、あれはでかい湾なんだ」
だから、迂回路を取って湾を道沿いに北上する。
「ここまで来たからには引き下がれないわ。目的地はもちろん、<緋なる湖畔>よ」
昨夜の襲撃事件のことは、まだアウレティカは知らない。だから結女の言葉を聞いたアウレティカが思い出したのは、酒場で出会ったあの黒衣の男のことであった。
「そういえば……あの指環は、大学に置いて行っちゃうんですか?」
「あたしたちが持っていって、あいつに出会ったら、なんだか届けてやったみたいで、癪じゃない?」
結女は視線を鋭くして、中空の一点をにらみつけた。
「だから、もし出会っても、あなたの指環はフィリアゲートにあるのよ、って教えてやるだけにしたの」
「はぁ……」
よほど、昨日の侮蔑が堪えているらしい。
アウレティカはそれ以上を聞かずに、食事に専念した。
まだ当分は、この天気の中を歩くことになるのだろう。<緋なる湖畔>への不安は、少しでも体を温めておかなければ、という考えに追いやられ、居場所を失った。
フィリアゲートを出た三人は、二人の会話どおり、峠を降りるとすぐに進路を東に取り、ぐるりと迂回を始めた。
海辺の道は風が強く、そうでなくとも寒さで体温が奪われていくのに加え、風によって体力まで消耗するのは得策ではないと考えたせいであった。
気づかずとも、風を長い時間浴びているだけで、体力は意外にも磨り減るものだ。乾き切った空気の中に、白い呼気だけを吐き出しながら、三人は道を急いだ。
これより先は、あの禁忌の地のせいで、極端に人気がなくなっていく。時折、人々が集まる小さな集落が見つかることもあるが、それとて定住するものではなく、時間が経てば人に捨てられ、消えていく運命のものだ。
フィリアゲートを出てから四日。迂回路から抜けた三人は、北東へと進んでいた。
北にある湾から吹き込んでくる、湿って冷えた風の所為で豪雪地帯に数えられている地方を抜けたために、大地には緑が見え始めていた。ブーツの底の感触も、凍った雪を踏み砕くものから、柔らかく湿った土を踏みしめるものへと変化していた。
だが、これだけ歩いても、集落の気配はおろか、旅人の気配や名残すらない。野宿には適しているであろうと思われるような岩陰や小高い場所を覗いても、火を使った痕跡はどこにもなかった。
それだけ、この地方は人に見放されているためであろう。
あるいは、禁忌の力を恐れ、数百年の間、よりつかなかったせいであろう。
その草原を、三人はただひたすらに進んでいた。
変化があったのは、五日目の昼過ぎであった。
単なる気候の所為か、それとも<緋なる湖畔>に近づいている所為か、空は薄い雲に覆われ、全てが白い色彩を帯びた光に晒された日であった。雲のために陽光は遮られ、地上には実体を失った、鮮烈さを欠いた霞のような光がただ緩慢に降り注ぐのみ。地表に届く前に光は四散し、全てが霧のように揺らいで消えるのではないかとも思わせるほどの、不思議な雰囲気に満ちていた。
短い休憩ののち、腰を上げたジュライは、地平線の彼方に何かの影を見つけた。
三人は少し高く盛り上がった、岩が重なって苔生した上に座っていたため、ジュライはすぐにそこから飛び降り、大地に顔の側面を押し当てる。
あの影の正体がなんであるのか、足音から察知しようというのだ。
旅の経験からすれば、ジュライは他の二人よりも一日の長があった。
下手に逃げ出そうとしても、これだけ遮蔽物のない、広大な平原である。もし野生の獣の類であれば、身に危険が及ぶ虞もある。
だがジュライの耳に届いたのは、重々しい何かが大地を踏み鳴らす音であった。
鈍いが、数は多い。
低く響くそれは、明らかに少しずつではあるが大きくなっていた。
獣ではなかった。
それに、これとよく似た音を、ジュライは聞き覚えがあったのだ。
不安そうな顔で、ジュライの反応を待っていたアウレティカと結女に、ジュライは緊張を帯びた顔のまま、低く伝えた。
「馬の蹄の音だ。こっちに向かってくる」




