第六章第三節<Weird Truth>
女とその影が消失すると同時に、部屋全体を覆っていた妖気は霞のように四散していた。
フランシス教授の傍らにいた研究員のうち数名が、足早に部屋を横断し、指環が小箱の中で無事であることを確かめる。
ジュライは天井に突き刺さっている剱をそのままに、まだ起き上がれずにいる結女の側に膝をつき、顔色を伺う。
命に別状はなく、また手傷を負っている様子はなかったが、白い喉の周囲にぐるりと赤い痣のような痕がくっきりと残されていた。それはあの女の影が、いかに強い力で結女の喉を締め上げたかを如実に物語るものであり、また相手が本気で結女を殺そうとしていたという事実に、今更ながらに背筋が凍る思いを隠せない。
両手をついて項垂れ、そして呼吸をするたびに顔を痛みにしかめるその様子からは、もしかすると喉を痛めたのかも知れぬ。
「立てるか」
ひゅうひゅうという音をさせながら、結女は頷き、そして躰を起こす。
「……喉を痛めてるかもしれないな、喋らなくていい」
ジュライは安全を殊更に示すかのように笑顔をつくったが、結女の唇は音もなく開閉を繰り返している。
それが、何かを伝えようとする意図であることと判るのに、数秒を要した。慣れぬ読唇術から、それでも幾つかの単語を拾い上げ、ジュライは結女の言葉を理解しようとする。
どうしてここにいるのか、という簡単な問いであろうと判断すると、ジュライは頭を掻きながらその理由を説明した。
「さっき、ふと起きたらさ、窓の外に結女が走っていくのが見えてよ」
だが、結女が訴えようとしているのは、そんなことではなかった。
ジュライがここにいる理由を知りたいのではない。今、こうしてここに二人がいるということが何を意味するのか、それをジュライに伝えたいのだが、痛めた声帯は頼りない音を漏らすだけだ。
自分が回答してもなお、さらに焦燥感をつのらせる結女に、ジュライが眉根に皺を寄せる。
「……紙とペンを持って来ようか」
あれほどの態勢で喉を絞められたならば、恐らくは息をするだけでも鈍痛が走っているであろう。筆談ならば意志の疎通も出来るだろう、と二人のやり取りを見ていたフランシスが、助け舟を出した時であった。
業を煮やした結女は右手を一閃させ、もどかしいジュライの頬を思い切り張ると、その横を駆け抜けていった。ことのほか大きな音が響いたのと、相手の意図が分からず、頬を押さえたまま呆然と立ち尽くすジュライ。
研究員のうち、何人かは事情を知らず、ジュライの呆けた顔に失笑を漏らす。何が起きたのか理解できていないジュライに、フランシスは歩み寄ると、がっしりしたその肩に優しく手を置いた。
「走り去った女は、追いかけておくに限るものだ。それがどんな場面であれ、な」
喉を痛めているとはいえ、結女の速度は目を見張るものがあった。混乱しているジュライは一度こそ見失ったものの、うっすらと汗をかく程度には運動を余儀なくされた。
冷え切った夜明けの空気は乾いており、喉の奥には血の味が仄かに滲むほどであった。
結女が向かった先は、部屋を取っている宿であった。大きな通りに出たところでジュライは結女に追いついたが、理由を聞こうと腕を掴んだジュライに、結女は気が狂ったように暴れた。
「いきなり飛び出して、なにがあった」
「あの子……部屋で……」
ひゅうひゅうという音に混じり、結女はかろうじて言葉を紡ぐことができるようにはなっていた。あの子、という言葉から、それがアウレティカを指しているであろうことはすぐに想像が出来た。
「アウレティカのことか」
ジュライの言葉に、結女はようやく頷いた。
「アウレティカが、どうかしたのか」
「一人、で……また、狙われる……」
結女が懸念をしていたのは、レヴィエラでのように、再び宿の部屋を襲撃される可能性があるということ。しかも、その理由に相応しいと考えることが出来る情報を一つ、結女は持っているのだ。
はっとなるジュライの指が緩んだときに、結女は再び駆け出した。
「あ、おいっ!」
今度こそ、ジュライは結女が急がなければならぬ理由をはっきりと理解した。うっすらと新雪が積もり、白く霞んでいる石畳を蹴りつけながら二人は走った。
宿まではそう遠くはない。視界に入ったと同時に二人は走る速度を落とさずに、二階を見上げる。
異変はない。だがそれは、外から垣間見ただけのことであり、まだ予断を許さぬ状況だ。時間帯を考えれば、苦情の一つでもぶつけられるであろう勢いで扉を弾き飛ばし、二人は足音を響かせながら二階の客室へと向かう。
呼吸が自由になるジュライが先に到着し、部屋の扉を開けた。
途端、二人の視界を光が埋め尽くした。
視力を奪われぬように顔を腕でかばいながら、二人が部屋の中の気配を探る。こんなにも強い光は、外から見たときにはなかったのに。
「アウレティカ!」
結女の叫びが、光に満たされた室内に響いたときであった。
まるでその声に呼応したかのように、光の強さは急速に弱まっていった。だが完全には消えず、それが部屋の中を照らし出すランプの光程度に弱くなったところで、光は強さの度合いを安定させる。
その中の様子に、二人は唖然として立ち尽くしてしまっていた。
アウレティカは、寝台の上で安らかな寝息を立てていた。
そして光の正体は、彼の寝台のすぐ上にあった。
寝台の縁に捉まるようにして躰を安定させている、一羽の光の鳥。翼を広げたその姿は、まるでアウレティカを守護しているようにも見える。動物でありながら、深い叡智を感じさせる瞳で二人をじっと見つめているその鳥は、一度翼を打ち振るわせた。
「なんだ、こりゃ……」
思わず呟きを漏らすジュライの横で、結女はそれが実体を持つ鳥ではないことを見抜いていた。
「敵じゃないわ、これ……この子を、護ってくれてるのよ……」
結女はゆっくりと室内に足を踏み入れ、そして光の鳥に手を差し伸べる。鳥は結女の意図を理解したように頷いてみせると、ゆっくりと輪郭を失い、払暁の闇の中に消えていった。
あとに残されたのは、一枚の呪符。
魔法陣が描かれた西の魔術符を取り上げた結女は、その術師が誰であるか、一目で見抜いていた。魔術符に綴られているのは、美しく整った精霊文字であったからだ。
「ありがとうございます、ゾットール様……!」
この街で起きていることを逸早く見抜き、アウレティカを護ってくれたというのか。
「ゾットールってのは?」
「昼間、私が会っていた人よ。図書館の館長をされている方……」
自分が酔い潰れるより前に、結女とそうした会話をしていたことをジュライは思い出した。
「そんな人間が、なんだって、アウレティカのことを……」
「この子、秘蹟能力者なの」
結女の声は、殊更に大きく響いた。
ジュライは驚きのあまり、じっと眠ったままのアウレティカを見下ろしている。
「秘蹟……って、そんなこと、こいつは一言も……」
「彼は秘蹟能力のこと自体、本当に知らないみたいだった。これは推測だけど、彼は本当に知らないのかもしれないのよ」
「でも、それじゃ」
秘蹟能力者自身が、自分の力に気づいていない、なんてことがあり得るのだろうか。
生まれてからその力を一度として使ってきたことがない、なんてことが。
周囲の人間にも知られず、そして同じ能力者にも感知されず。
そんなことが、果たしてできるものか。
「だけど、気になるのよね。もしかしたら、レヴィエラで襲われたのは、あなたじゃなくって……アウレティカ、だったんじゃないの?」




