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新編 Nostalgia Episode7  作者: 不死鳥ふっちょ
第一部  Eternal twilight dominated all of the island.
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第六章第二節<Nightshadow Lady>

 部屋の中は、結女の想像を越えた荘厳さをたゆたわせた光景であった。


 右手の壁に並ぶ窓からは、一様にして白い光が差し込んできている。薄いレースのカーテンに遮られ、外の風は吹き込んでくることはないが、微妙なドレープは身じろぎするように時折揺れ、光の屈折が床に至るまでの朧な光の斜線を、まるで天女の羽衣のように翻していた。


 そして、部屋の中は青い光で満たされていた。


 床には直列する二つの魔法陣。中央に書かれているものは一際大きく、縦に長い部屋とはいえ、両端に接するほどの巨大な直径を持っている。


 そしてその奥、部屋の闇がさらに濃い場所には小さなものがあった。


 魔法陣の図形と文字配列が光を成し、淡く輝いている。


 そして目当てのものは、一番奥の魔法陣の中央にあった。小さな台の上に置かれている、絹の布張りの台座に安置された指環。


「これは結界……?」


 結女は解読できぬ魔法陣を前にして、白い呼気とともに小さく呟いた。


 そして、図形を回り込むように、指環から視線を外さぬように歩を進める。


 光の角度が変わり、視界が暗くなる。


 結女は足を止めた。それは本当に、自分が動いたことによるものか。


 止まったまま、結女は指環に意識を集中させつつも部屋の中の気配を探る。


 五指を握りこむ掌が、じっとりと熱い。


 このとき、部屋の外の廊下から扉を開けて入ってくる者がいれば、その者に対しては結女は完全に無防備であった。侵入を気づかれるよりも、この部屋に潜む気配の察知を優先していた。






 そのときであった。


 天井から、鍾乳石のように、闇が垂れた。巨大な、大人の頭ほどもある雫がまるで天井を覆う軟体生物から分離するかのように、ゆっくりと、しかし確実に伸び落ちてくる。


 長い尾を引くその先には、あの指環があった。


 ごくりと口中の唾を飲み、結女はその様子を見守る。


 自分が部屋に足を踏み入れたことによる、魔法陣の防衛反応ではありえない。もしそうだとしたら、反応が遅すぎる。


 結女の見ている前で、雫はつるりとした表面にさざ波を立て、そこから五つの突起を生み出した。長く爪を伸ばした指が、指環を求めて開く。


「待ちなさい」


 気を張った結女の声が闇を裂き、指の動きが止まる。


「退きなさい。さもなくば、私が相手をすることになるわ」


 一瞬、戸惑うような動きを見せた指であったが、すぐに部屋の中に女の含み笑いがぞわりと広がった。


「相手、というのは……どのような相手だい?」


 指環の真上の天井から、ばさりと長い髪が垂れた。長さにして一メートル半はあろうかという不気味に長い腕と、不自然な角度からの艶やかな髪。


 その光景を目の当たりにした瞬間に、結女は動いていた。


 呪符を構え、投じる。短刀のように飛来した呪符は指環を今まさに捉えんとする腕に突き刺さり、闇は破魔の力に耐え切れず、千切れて落ちた。


 半ばで断ち切られた腕はしかし、実体ではないようであった。蠢きつつも、ずるりと天井の闇に戻っていく中で、幽鬼のように垂らされた髪の向こうから女の声が響く。


「とんだ鼠が牙を剥くと思ったが……これは面白い」


 前方から照射される殺気の方角が変化したことに、結女は咄嗟に気づいていた。


 そのときに後ろに逃げたのは、相手の力に勘付いていた結女の機転か。足元の闇から、結女の腹を串刺しにしようとするが如くに斜めに突き出された漆黒の剱は、空を裂くことに終わった。


 しかし続けざまに闇から繰り出される黒い短刀を前に、結女は防戦一方に回ることを余儀なくされる。躱し、避け、呪符で払い続けたとしても、体術には心得の乏しい結女であれば、限界はあった。


 回避の遅れた左の二の腕に、引き攣るような痛みを感じた瞬間、結女の動きが鈍った。相手はその隙を見逃さず、指環を捉えようとしたものと同じ闇の腕で、結女の喉を掴み、吊り上げた。


 息が詰まり、くぐもった声をあげる結女。指先からは構えていた呪符が落ち、結女の爪先が床を離れる。闇の腕とはいえ、恐るべき膂力であった。


「異国の術も、そこまでか」


 苦悶に歪む結女の顔に、女の髪がかかった。霞む意識を奮い起こし、瞼を押し開けると、そこには乱れた髪の奥から爛々と目を滾らせる夜叉のような顔があった。


 亡者の如くに飢えた欲望を浮き彫りにしたようなその表情に、結女は強い呪詛を感じる。


 しかし、抵抗する術はない。気管は詰まり、頚動脈は圧迫されて脳に流れる新鮮な血流は阻害されてしまっている。意識すら失いかけるその状況では、術に必要な精神力は喚起することができない。


 だが、このまま負けてなるものか。


 手を伸ばし、女の髪をぐっと掴む。


 亡霊などではない。指に絡む感触は実体だ。


 そのまま引き寄せるようにして、結女は視界に女の顔を焼き付けようと凝視する。


 戦意喪失など、してやるものか。意識を失い、力が抜ける最期の瞬間まで、抗ってやる。


 その精神力が、結女の命脈を永らえる契機となった。






 薄れ行く意識の中で、部屋の扉が力強く開かれた音がやけに大きく響き渡る。


 事実、それは死の静寂に満ちた部屋の中に朗々と木霊した。


「そこまでにしてもらおうか」


 足を踏み入れてきたのは、薄汚れた白衣を羽織ったフランシス教授であった。やや遅れて研究を続けていた学生に混じり、見た顔が入ってくる。


 喉を締め付けていた指が緩み、結女の躰は冷たい床に叩きつけられた。気管が解放され、肺が新鮮な空気を求めて暴れ、咳き込む背中をさする手は、大きくごつごつとしていた。


 顔を上げると、そこには昼間酒場で酔い潰れていたジュライの顔があった。何度も躰を波打たせ、涙が滲むほどに詰まっていた空気を吐き出す結女は、そこでやっと天井を仰ぐ余裕が出来た。


 そして、総毛立つほどの悪寒が躰を包む。


 異様な光景がそこにはあった。天井全てを覆い尽くす闇が、全て軟体生物のように蠕動していたのだ。あの女が闇を支配する魔力を持っているという仮説も、あながち嘘ではないようであった。


 巨大な単細胞生物の中に、腰まで逆さに生えた女性の躰が反り返ってこちらをねめつけていると言う光景は、およそ強い精神力がない人間ならば卒倒、発狂してもおかしくはないほどに奇怪で異様なものであった。


「誠に勝手ながらこの部屋に結界を結ばせてもらった。貴殿の退路はない、速やかに……」


 フランシスの語尾は、妖しくさざめく女の笑いによってかき消された。


「これが結界ですって……?騎士団の結界も紙同然だけれど、それより脆いわね」


 だらりと垂れた長い髪が、蛇のように蠢き始める。


「あの指環の持ち主は何処?」


 誰も答える者などない。しばしの沈黙の後、強い拒絶の意を感じ取った女は、含み笑いを漏らし。


「ならば出直させてもらうわね……おやすみなさい」


「逃がすかッ!」


 影が収斂を始めると同時に、ジュライが腰の剱を一息に抜き放つ。鍛え上げられた鋼同士の擦れる音を放ちながら、ジュライは右手一本でそれを天井めがけて投じた。


 空を裂く剱は回転しつつも影を断ち、突き立てることができたが、影はまるで堪えてはおらぬように一点に向けて吸い込まれるようにして消えていく。


「くそ……」


 歯痒い思いで見守る中、異形の女は見る間に姿を消した。

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