第六章第一節<Midnight Visitor>
夜半をどれだけ回った頃だろうか。
闇の中で結女の瞳が開いた。
吐く息が白いのは、夜になって一段と冷え込みがきつくなっている所為だろう。窓の外に目を向けると、暗い闇の中に時折、白いものがちらりちらりと行過ぎている。がたがたと窓が鳴っていることからも、風が強いのだろう。
雪華が風に乗って舞い踊る夜更け。
結女は、シーツの中のぬくもりという誘惑を撥ね退け、躰を起こした。
支度を整え、外套を纏い、そして服の内懐に呪符を確認する。
冷えた空気が、結女の感覚から眠りの残滓を急速に奪い去っていった。
意識は覚醒し、それに応じて躰にも鈍い反応は見られない。
結女は壁一枚隔てた隣の部屋の気配に一度、注意を向けた。今頃は、アウレティカもジュライも、深い眠りの中にいるはずだ。アウレティカを残していくことにはいささかの不安もあったが、ジュライがいるならば安全だろう。
自分とめぐり合う前も、ジュライは何者かの暗殺を撃退しているのだから。
そう自分に言い聞かせ、結女は部屋をあとにした。
向かう先は、ナイン・ツァルヴェール大学。
昼間に聞いた、あのフランシス教授の言葉はまだ耳に残っている。
指環は秘蹟能力によって生み出され、そして信じられないほどの強い呪縛によって力を指環という形状に保たされているということ。
秘蹟能力それ自体には優劣はないが、使う者の意志の力によって、強弱は起こり得る。誰の手によるものかはわからないが、少なくとも指環を生み出した能力者は、フランシス教授の持つ秘蹟能力を遥かに上回る力を持っているということであった。
しかし、それよりも、教授の最後の言葉が、結女には気になった。
アウレティカが、秘蹟能力者だと。
二人と出会ったあのとき、結女が説明するまで、アウレティカは秘蹟能力というものの存在を知らなかったではないか。
嘘をついていた、という可能性は、彼女は真っ先に否定していた。あの時のアウレティカの表情からは、何かを隠している様子はなかったからだ。
それに、何故隠す必要などあるのだろう。秘蹟能力を持つものなど、少ないとはいえ、この世界には何百といる。過去ならばいざ知らず、秘蹟能力を持っていることで罪状を突きつけられるような世界ではないのに。
となれば、可能性は一つ。
彼は、自分の持つ能力を秘蹟能力であると知らずにいる、ということ。
彼と、ジュライと、三人で旅をしてから、しばらく経つ。
その間、アウレティカが何か特殊な能力を使ったことを、自分は見ていない。
ならば、アウレティカの秘蹟能力とは、一体。
一度通った道のため、結女は迷うことなく大学へとたどり着くことが出来た。
さすがにこの時刻であると、人通りも絶えて久しい。そこここに吹き溜まりのように新雪が積もり始めている道を小走りに駆け、結女は大学の正門を潜り、フランシス教授の研究室のある棟を目指した。
既に息は上がり、喉の奥には血の味がするほどになっている。
だが、結女は先を急いだ。
夜が明けてからでは遅い。
理由は、ただ一つであった。
あの指環に対して、結女なりの分析がしたい。流派こそ違えど、指環を分析することができれば、何かがわかるかもしれない。
歩を進めながら、結女は父であり師匠であった、星の言葉を思い返していた。
「ヴォン・ヨー・ズという学問は、他にはほとんど類を見ない。お前も旅をすれば分かるだろうが、この世界はいつだって真理というものを求めている。だが、知らねばならぬ真理など、そしていまだ知られてはいない真理など、あると思うかい」
人はもう、生きていく上で必要な真理など、とうの昔に知ってしまっているのだと。
今、人々が追い求めているのは、真理ではなく、物事の捉え方なのだと。
しかしそれは、人から教えられるのではなく、自分で見つけなくては意味がない。陰陽、二つの理に支配されたこの世界で、自分なりの答えを見つけて来い。
父様は、そう教えてくれた。
ならば、あの指環は自分にとって、どのような存在なのか。
扉を開き、暗く凍てついた廊下を進み、階段を上り。
そこまで来た結女の耳に、人の気配がした。
急いで曲がり角に身を潜めつつ、様子を伺う。廊下の突き当たりに扉があり、そこから学徒が二人、現れたのだ。何やら結女には理解できない内容の話を交わしながら、二人は廊下の途中の部屋の中に入っていく。
指環は何処だ。あれから、位置を変えられてしまっているのかもしれない。
いや、それ以前に、この時間でも人がいるということなど予想していなかった。
これは、考えていた以上に時間がない。結女は息を殺すと、思い切って廊下を進んだ。
いつ何時、すぐ傍らの扉が開いて、中から人が姿を現してくるかもしれないという錯覚と動揺に囚われつつ、結女は廊下を進む。
急がねば、見つかる確率は高くなる。しかし扉一枚を隔てた向こうの廊下で、足音を高らかにこの夜更けに駆け出そうものなら、不審に思った者が飛び出してくるだろう。
相反する葛藤に駆り立てられつつも、結女は扉の前にまでたどり着いた。
ひんやりとした樫の扉に手を置きながら、結女はもし鍵を閉められていたら、という恐怖を感じた。目的がどうあれ、今の自分がしていることは、不法に最高学府の研究施設に侵入していることに他ならない。
だが、彼女の懸念は幸運にも杞憂に終わり、扉は内側に開いていく。
蝶番は軋み一つあげず、結女をその中に誘う。最後の瞬間にも気を抜くことなく、結女は必要最低限だけ扉を開けると、その中に躰を滑り込ませた。
音がせぬように扉を閉め、そして人気のない部屋に眼を向ける。
そこには、予想していたよりも広い空間が、広がっていた。




