間章Ⅴ<闇色の悪意>
その夜、星の宮殿の一室には、妖しい空気が流れていた。
邸宅の主である、ジュリアン・アイアトン上級大将が招いた客人の持つ雰囲気は、たとえ貴族の邸宅が広大であるといえど、大気に不穏なざわめきをもたらすには十分すぎるほどであった。
赤を基調とした内装に彩られた一室の安楽椅子に身を沈めるジュリアンの前に、一人の黒衣の女がいた。長い髪は背は腰まで伸ばされており、微かな癖もないそれはまるで闇色の翼か、もう一着の外套であるかのような印象を持たせている。顔の左半分を隠す前髪はそのまま胸元まで垂れており、漆黒のヴェールの向こうに潜む眼差しは異様な輝きを見せていた。
だが、ジュリアンはその女の眼差しの力を読み取っていたのだ。
貪婪に欲望を追い求める者が持つ、強く濁った光。この瞳を、己の躰を蝕む鈍い苦痛と深い快楽の中で見上げる者は、今までに数知れぬ。自分の命の灯火が燃え尽きようとしている、その絶望の只中で、その者は強い自己破壊願望の渦の中に捕らえられ、身を捩るのであろうか。
痩身を自らで抱きしめるような格好の女に向け、ジュリアンは一つの提案を出した。
呪務管理局長オーウェンの、<緋なる湖畔>に向けた動向の一端が知れたのだ。
奴は遺産局と手を結び、何者かと派遣した実地調査を続けているらしかった。
既にバベル・フラムスティードの資金援助交渉は失敗に終わっていた。だしに使おうと考えていたジェレミーは胸を撫で下ろしているに違いないが、このままではいずれ貴族は潰される。
「オーウェンの部下の男の監視を行え。もし奇妙な動きを見せたなら、殺しても構わん」
だがその提案に、女は明らかに落胆した表情を見せた。
「褒章の額面はお前が決めろ。この話は貴様の秘蹟能力を見込んでのことだ」
「……ふぅん」
女はぬめり光る舌で、唇をゆっくりと湿らせた。
「だけど、私が躊躇ってるのはお金の問題じゃないんだけどな」
言葉の響きそれ自体に、魅了の呪が込められているような響きに、ジュリアンは嫌悪感を見せ、鼻を鳴らした。
「……人形が欲しいか」
「分かってるじゃない」
「話を受けるなら考えてやる」
突き放すような物言いに、女は艶やかな笑みを浮かべた。
「あら、それは順序が逆なんじゃないの……?私にしてみれば、あんたの言うことを聞かなくても、充分つてはあるんだけどね」
苦虫を噛み潰したような顔のまま、ジュリアンはじっと肘を突いて女の顔を見上げた。しばし両者の視線は交錯し、その結果、ジュリアンの瞳が閉じられた。
「使用人の中から二人連れて行け」
「交渉成立ね」
女は嬉しそうに唇を吊り上げた。
「だが、この依頼はアイアトン家と何等関係がないことだけは覚えておけ」
純粋な、私的な依頼であるということは、重要な条件であった。
もし遺産局と呪務管理局を真っ向から敵に回せば、現状で有利に働くことは何一つない。最悪の場合、派遣された男を殺す算段になったとしても、それはあくまで「不慮の死」もしくは<緋なる湖畔>に起因した死でなければならないのだ。
これが政府の要人であれば、金の関係でしか繋がりのない、地下組織のギルドに依頼するのがもっとも有効な手といえた。
しかし、今回相手にとるのは魔術師、それも秘蹟能力者の可能性が高い。もし逆に拘束され、魔術で記憶や情報を引き出されれば、こちらの思惑は筒抜けとなる。ジュリアンは椅子から立ち上がると、部屋を横切って窓辺に向かった。
「わかってるわ、お兄様」
女は言葉の後半に語気を強め、笑みを浮かべた。
「<緋なる湖畔>、そんなに大事なの……?」
「貴族権益を守り、主導権を握るには絶好のカードだからな」
「でも……一つだけ不満があるとすれば、監視する相手が男っていうのがね」
肌を逆撫でされるような、不快な悪寒を伴う笑いが部屋に流れる。
「まだ男を知らない生娘を二人……連れてきてくださるかしら、お兄様?」




