第五章第三節<The Ring>
「本当に、教授だったんですね」
「だからそう言っただろう」
冗談ではなく、本心から感心しているアウレティカに、男は苦笑を漏らした。
男が向かった先はフィリアゲートの中にある三大学のうち、ナイン・ツァルヴェール大学であった。
酒場をあとにしてから二十分、二人は男の研究室にいた。部屋は然程広くはなく、正面の奥には机があったが、その上には書物が積み重なっており、とてもではないが机としての機能を果たしてはいそうになかった。机に至るまでには、壁に沿った形で二列に書架が並び、またその間にも一つの書架が置かれ、あたかもかび臭い迷路のような様相を呈していた。
男はアウレティカを部屋の奥に招き入れると、脱ぎ捨てられたシャツがクッション代わりになっている椅子に腰を下ろすと、改めてアウレティカに向き直った。
「さて、それでは改めて見せてもらおうか」
男は、アウレティカに向けて右手を広げて見せた。
渡された指環は男の掌の上に乗せられ、アウレティカは息を呑んで事態を見つめる。男はポケットから眼鏡を出してかけると、一度アウレティカを見上げるようにして視線を向け、そして再び指環を凝視し、やがて溜息を吐いた。
「……成る程なぁ」
「何か分かったんですか?」
「いや、それはまだだ……だが、俺の仮説は正しかったってことさ」
男が指環をぐっと握り締めたところで、研究室のドアがノックされる。
視線を向けることなく入室を促すと、そこには二人連れの人影があった。一人は結女であり、もう一人は見たことのない若い男性だ。
服装からして、この大学の研究員のようであったが、結女を案内しつつ、男に用があると言う風に、足早に向かってくる。
「ユーバー教授、実験室の準備が整いました」
「ありがとう、すぐに行くから伝えてくれ」
青年は一礼すると、結女を残して退室していった。二人のやり取りと、男への反応から、結女は目を丸くして呟いた。
「呆れた……酒場の飲んだくれが、ホントに大学の教授だったなんて」
「君たちは、少し人の話を信用するということを覚えたほうがいいね」
それは何も誇張表現ではなく、アウレティカと結女から同じ感想を向けられたフランシス・ユーバー教授の本意であった。
「結女さん、ジュライは」
「ああ、手近な宿見つけて、放り込んどいたわよ」
溜息交じりに答えると、結女は腕を組んでフランシス教授に向き直った。
「それで、さっきの指環…何か分かったの?」
「それをこれから、調べるために準備をさせていたんだよ」
フランシスは指環を握ったまま、椅子から躰を起こすと、二人をまじまじと見つめる。
「君たちといい、先ほどの男性といい、実に風変わりな取り合わせの旅人だが……立ち入ったことを聞くのは野暮というものかな?」
「何を考えてるのかは知らないけど」
結女は肩をすくめてみせ、フランシスに微笑んだ。
「この二人、レヴィエラで秘蹟能力者に殺されかけてたのよ、宿屋で寝込みを襲うように。で、偶然あたしと合流して、ここに来たってわけ」
「ふむ」
フランシスは何かを考え込むようにしていたが、やがてこの場で結論を出すのは懸命ではないと判断したのか、思考の迷宮をあっさりと捨てた。
「まあ、いいだろう」
フランシスは明るい表情をつくって見せ、二人に頷いた。
「来なさい、この指環がどういった類のものか、見せられるかも知れない」
フランシスが二人を連れて向かったのは、質素な小部屋であった。
およそ実験室という名が示すとおり、部屋の中にある机の上には様々な書物や用途不明の器具が、埃とともに積まれていた。
フランシスは、まだ部屋の中を右往左往する学生の間を縫って進むと、手近にある小さな机を見つけ、それを二人の前にまで持ってくる。それから室内の学生に命じ、部屋の窓にかかったカーテンを全て閉めさせると、机の上を黒くて厚手の布で覆う。
カーテンの隙間から、僅かに差し込んでくる光だけを残し、薄暗闇に包まれた部屋の中で、フランシスは静かに指で机を指し示した。
「アウレティカ、指環をここに」
短く答え、アウレティカが指環を取り出し、音もなく布の上に置く。学生らは無言のざわめきとともに、我先にと身を乗り出すが、暗い中に置かれた指環は、何の変哲もない。
そこから感じられる、微弱な魔力のみであり、そのようなものであれば、何処にでもある品であった。
フランシスは指環に頷いてみせると、おもむろに右手を突き出して見せた。
「御名、Hieronymusの名によりて導け」
魔術詠唱とは違うその言葉がフランシスの唇から漏れ出るや否や、異変は起きた。指環が小刻みに揺れたかと思うと、その表面から紫色の煙が立ち上ってきたのだ。
「何をしてるの……」
「お静かに」
思わず、独り言を呟く結女に、学生の一人が手短に制する。
「秘蹟能力です」
紫の揺らぎの中で、指環は妖しい光を放ちながら、次第にその形状を失わせていった。
まず最初に黒玉が溶け、ついで輪の部分が溶解し、布の上でそれはどろりとした紫の光を孕む溶液となる。だが変化は続き、溶液は左右に引き伸ばされ、差し渡し三十センチ程度の棒状になっていく。
学生たちは殊更動揺していないように見えたが、アウレティカと結女にはそれは初めて目の当たりにするものであった。
フランシスは指環に働きかけ、それをロッドに変化させてみせたのであった。紫色の光の中で、溶液はみるみる凝固し、白銀の柄に蔦薔薇の絡みついた、精巧なロッドと化した。
二人が息を呑む中、フランシスはそれに指を伸ばそうとしたが、指が触れるや否や、何かが弾けるものすごい音が響き、苦悶のうめきとともに腕を引く。
指先に、したたかに何かで打ち据えられたかのような痺れを感じつつ、左手でかばいながら机を見れば、なんとそこには以前と何等変わらぬ指輪が転がっているではないか。
フランシスが生成したはずのロッドは、今やどこにも見られなかった。
「……どういうこと」
「指環には、その形を保つための力が宿っていると言うことだ。それはすなわち、指環の力が他の秘蹟能力者に流用されることを防ぐ役割でもある」
駆け寄る学生に傷はないことを伝え、カーテンを開けるように指示を出す。
午後の陽光が部屋に差し込まれる中、指環は何もなかったかのように、そこにあった。
「この指環は、あの男がうっかり落としたものか、それともわざと落としたものかは分からん。が……」
フランシスは指環をつまみ上げると、それを結女に差し出した。
「手を出しなさい」
結女は右手を出そうとして、しかし途中で動きを止めた。
「大丈夫だ。さっきのようなことは、もう起こらんよ」
無理に促すように、フランシスは頷いて見せた。
結女が恐る恐る前に出した掌の上に、フランシスは何故か指環を少し高い位置から落とした。
そして、次の瞬間、結女は信じられない体験をすることになった。
なんと指環は、彼女の掌をすり抜け、布の上に落ちることとなったのだ。
錯覚でも、安っぽい手品でもない。指環は間違いなく、結女の掌を幻のように貫通し、その下に落ち、しかも結女は掌に何かが触れたという感覚は一切なかったのである。
「これでわかっただろう。あの男もまた、秘蹟能力者なのだよ。この指環は、あの男の能力によって生み出されたもの」
だからフランシスには使うこともできないし、ましてや能力者でもない結女には触れることすらできない。
目を丸くしながら、自分の手を見つめる結女に、第二の衝撃が続いてもたらされた。
「そして君もまた秘蹟能力者というわけだ、アウレティカ」




