#19 崩れ始めた均衡
その頃――
彼らの知らない場所では、すでに別の動きが始まっていた。
『ヴェイル統括研究監、何か気になることでも?』
『…そうね…』
esのとある一室――研究室の中で、マーゴット・ヴェイルは、本部から送られてきたメールに目を通していた。ユラユラと立ち昇るホログラムパネルに映し出されたそれを見て、ヴェイルは不敵な笑みをこぼし、つぶやく。
『やっぱり、色々と嗅ぎ回っていたのね』
ヴェイルの周りには、ベッドに括りつけられ意識も朦朧としているサイキックや、今まさに薬を打たれそうになっていて泣き叫んでいるノーマル。
そして、次は自分の番かと怯えながら、地獄のような光景を見ている子どもたち…
『もう少しゆっくりと計画を進めるつもりだったけれど、嗅ぎつかれたのなら仕方ないわね。一番欲しいのはロキだけれど、手始めに彼らからでも構わないわ』
薬を打たれて泡を吹いているノーマルの胸にナイフを一直線に突き刺したヴェイルが、「これも失敗ね」とため息をついた後、「あ、そうそう」と笑って付け加える。
『あの、計測不能なサイキックの弟くんも、一緒じゃないとダメよ?』
最高の体に、最高のPSIを移植する。
まだ完全なる成功とは言い切れないこの実験も、素材さえ揃えば見事に結果を残せるだろう。
…彼らはそれに最もふさわしい存在だ。
『今から楽しみで仕方がないわ。「回収」に行く時には「あれ」を連れて行きなさいね』
『はッ!』
そう言ってヴェイルが見つめる先には、実験室の奥にある一つの扉。
そこからは、人のものとも獣のものともつかない…低くて恐ろしい、地を這うような音が聞こえていた。
――平穏は、目に見えない場所から先に壊れていく。
『ったく、内勤なんて言われても、いったい何をすればいいんだか…』
『いや、あるでしょ?後回しにしていた書類とかさ』
『俺は苦手なんだよそういうの』
定時も過ぎて…
二人は今日一日、ほとんどの時間をこの部屋で過ごしていた。
慣れない書類仕事や、掃除や片付けなどの力仕事。
…特治の内部では、事務職などの女性陣が二人にそういった仕事をさせることに多大なる抵抗を感じていたようだが、二人は内心文句を言いつつも、どうにか一日目をやり過ごす。
『日頃こういう仕事を専門にしている人たちに、マジで頭が上がんねぇな』
『適材適所ってものがあるからね。グレンはどう考えても捜査の最前線にいないとダメな人だよ』
『そういうノアは本来はデスクワーク派だもんな』
『まぁ、そうだね』
「俺は体を動かしていないとダメだなぁ」と笑ったグレンにも、そしてノアにも、自分たちを取り囲む何らかの気配を感じていた。
『…そろそろ帰るか』
『そうだね』
まさか、安全なはずのホームでこんな嫌な感覚を味わうとは。
向こうから何もしかけてこないのであれば、こちらも今は様子見だ。
――グレンはそう思いつつ、これは、家に帰ればアレンやルーカスまで巻き添えにするかもしれないと、内心どうしたものかと悩んでいた。
『…っつぅかさ』
『ん?』
そういや昨日、アレンに言われたんだった。
ルーカスがロキに、esから狙われているとかなんとか言われた…って。
本人は面倒臭がって「散歩してくる」と言って逃げてしまったが、アレンは本気で心配していた。
…おそらく、ルーカスが狙われているというのもウソではなく、理由は自分たちと同じなのかもしれない。
…ただ、ルーカスに関しては、自分が協力を仰ぎ、巻き込んでしまったせいだ。
こうなると…やっぱりアレンは実家に帰した方が良いんじゃないか。
…グレンは帰宅したらその足で、アレンを両親のもとに送り届けようと考えていた。
『…俺たち何気に、今ものすげぇピンチじゃねぇの?』
『…だろうね。ま、今更だけど』
『もう、なんも考えないで行動してやろうかな…』
『…サイキックから理性を取っ払ってしまったら、単なる暴走機関車だよ』
『なんだよ暴走機関車って…いつの時代の乗り物だ?』
『1000年以上は前かな』
『知らないもので例えるなよ。全然伝わんねぇから』
「あー頭が痛ぇ」とぼやくグレンにノアが「まぁまぁ」と宥める。
そんな二人の背中が、いつだって臨戦態勢に入っていることを充分に理解している、二人を取り囲む「何らかの気配」は、結局手出しはできず、そのままその気配を消した。
それでも、まだこの時の二人は、事態がどこまで迫っているのかを知らなかった。
『嫌だよ。俺はこの家にいたい』
『アレン、気持ちは分かるが、今は本当に危険な状況なんだよ』
帰宅して、四人で食卓を囲み、それぞれ風呂も済ませ、ノアもそのまま泊っていこうかという状態でくつろいでいる時に、グレンは覚悟を決めてアレンに提案をした。
『俺がみんなの足手まといになるのは分かってる。でも、自分の身は自分で守るから』
『…』
『迷惑はかけないから、せめて、この家で三人が帰って来るのを待つくらい、させてほしい』
『…アレン、悪いが今はダメだ』
『…』
『父さんなら、この家同様、まず破られることのない強力なシールドで守ってくれる』
『…』
『だから、ルーカスと二人で父さんの所へ行くんだ』
『へ?俺も?』
グレンの言葉にルーカスが驚く。
『…あぁ、お前自身も危険なことには変わりないし、アレンを守ってもらうという意味でも一緒にいてくれたら安心だ』
『…それは別に構わねぇけど…親父さんにしてみれば「お前誰だ?」状態じゃね?』
『もちろん、ちゃんと伝えておくよ。とにかくお前も絶対に油断するな』
『そっちこそ、だろ?』
『兄さん、俺嫌だって』
『アレン、この話はもう終わりだ』
『…』
グレンの表情と声音がいつもとは少し変化した。
それを見たアレンが、一切反論しなくなる。
ルーカスにしてみれば不思議な瞬間だが、ノアにとってはこれまでにも幾度か見てきた光景だった。
――グレンはアレンに甘く、基本的にはあまりうるさいことは言わない優しい兄なのだが、こういう、しっかり決断しなければいけない時には、アレンに口答えを許さない、圧のようなものを出すこともできる。
アレンにしても、グレンの言動がいつでも正しくて、自分を思っているからこそのものだということを理解している分、これ以上の反論は兄を本気で怒らせると察したタイミングで、何も言わなくなるのだ。
『お前の親父さんって防御系のPSIを使うのか』
『あぁ。防御だけでなく精神安定やPSIの暴走制御など、調整系のPSIを三つ持っていて、威力はかなり高いが、逆に攻撃系のPSIを持っていない。だから、そこはお前にカバーして貰いたい』
『なるほどね。まぁ、強力な防御があっての攻撃なら、俺もやりやすいかもな』
『…まぁ、攻撃に出る必要がなく終わることを願うよ』
グレンとルーカスが話しているすぐ隣――
納得のいかない顔で、それでも、これ以上何も言うこともできずに俯いているアレンの姿。ノアは、そんなアレンを見て声を掛けた。
『アレン、あまり気にすることはないよ』
『ノア…』
『最近実家に帰っていなかっただろ?だから、親に顔を見せに帰る…くらいの感覚で行けばいいんじゃない?…まぁ、余計なのを連れて行かなきゃならないけどさ』
『…ここにいたら迷惑をかけるのは分かってるんだけど、でも…』
『迷惑なんかじゃないよ。でも、心配は心配だね』
『…』
『僕たちも四六時中一緒にいられるわけじゃないし、ルーカスにしても、アレンから目を離さずに誰かと戦うっていうのは、結構大変なことだからね』
『…』
『その点、おじさんの防御で守られながらの戦いなら、ルーカスへのリスクもかなり軽減できる』
『…』
『これが、みんなにとっての最適解だと思うよ?』
『…うん、そうだね』
アレンの気持ちも分かるが、サイキックからしてみれば、ほんの些細な攻撃でも死に直結しかねないノーマルを守りながら敵と戦うというのはかなり難しい。
まず、アレン自身が一番危ないし、アレンを守ろうとしながら戦うルーカスも同様に危険だ。
…そのことにアレンが気づけば、性格上、絶対に我がままは言わないだろう。ノアはそう確信していたからこそ、グレンの意図が正しく伝わるための、ほんの少しの補足をアレンに告げたのだ。
『おじさんおばさんに宜しくね。僕も最近挨拶に行けてないからさ』
『…分かった』
『そんなに長く離れるわけじゃないよ。仕事が片付けばグレンと迎えに行く』
『…うん』
グレンは、本当なら今日にでも自分のテレポートで二人を実家へ送り届けるつもりでいたが、アレンが店を暫く休むのにどうしてもやることがあると言い、明日、それが終わり次第、自分たちで実家へ向かうから大丈夫と言われる。
正直不安はあったが、自分たちにも良からぬ存在が周りをウロチョロしている。
ここはルーカスに任せて、出来るだけ自分たちとは離れている方が、かえってアレンを危険から遠ざけられるかもしれないと考えたグレンは、それに了承してしまった。




