#17 崩壊
『にに、にに、』
『アーサー、ついてきたらダメだって』
二歳になり、話せる言葉も増えて来たアーサーは、大好きなお兄ちゃんであるシヴァの後をいつもくっついて回り離れることがない。
そんなアーサーをうるさそうにしながらも嬉しそうに見つめるシヴァを見て、クレアもレナードも微笑ましく幸せな日々を送っていた。
つい先日、十一歳の誕生日を迎えたばかりのシヴァは、この一年、より倫理観を強めたレナードの教えに特に反発するでもなく、黙々とトレーニングや教育を受けていた。レナードの押し付けがましくない、慈愛に満ちた価値観や思考に良い影響を受けているのか、表面上ではとても穏やかで落ち着いた判断が出来ているように思える。この一年、シヴァは週に一度は、レナードの町への買い出しにも同行しているが、そこで老若男女さまざまな人間と接することで、感情やPSIのコントロールも自然と身につけ始めているのかも知れない。
また、レナードは、畑仕事などの手伝いだけではなく、自分の仕事に関する手伝いもシヴァにお願いするようになった。
「自然研究者兼作家」であるレナードの仕事は、周辺に広がる森や山を歩きながら、植物や動物、気候、土壌などの自然環境を観察・記録し、そのデータを自宅で整理して文章としてまとめることだが、シヴァを助手として連れて行き、自分が持っている多くの知識を授けながら、ゆくゆくはシヴァにも自分と同じ仕事で生計が立てられるよう準備を始めていた。
シヴァの容姿やPSIの能力を考えれば、都会へ出て華やかな生活をさせてあげたいと思う気持ちもなくはないが、シヴァの性格やPSIの強大さを考えた場合、できるだけ不特定多数との接触は避けて、美しい自然の中でマイペースに生きることを選択させた方が良いのでは…との決断に落ち着いたのだ。
『シヴァ、明日は裏の川の水質調査で上流の方まで足を運ぶ予定だから、一日家を空けることになる。その分も今日はアーサーと遊んでやってくれないかな?』
『うん、俺もそのつもりだったよ』
『そうか、ありがとう』
午後の穏やかなひと時――
庭先でレナードとクレアがお茶を飲みながら、シヴァとアーサーが犬や鶏たちと共に遊び回る様子を見つめている。
クレアが心から望んだ平穏な幸福と、レナードが命に代えても守ると誓った愛おしい空間と風景が、そこにはあった。
夕暮れの空気は穏やかだった。
畑の向こうでは山の影がゆっくりと伸び、家の周りに広がる、レナードが張っている守護領域は、いつもと同じように静かに空間を包んでいる。
遊び疲れたアーサーが眠そうにし出したのを見て、そろそろ家に入ろうかとレナードが声を掛けた。クレアは夕食の準備のため一足先に家の中へと戻っていたが、シヴァがアーサーの手を引いて戻って来るのを窓から見ていたのだろう。「すぐにでも寝ちゃいそうね」と笑いながら出て来て、アーサーを抱きかかえた。
その様子を微笑ましく眺めていたレナードだったが…
『…レナード?』
レナードはふと、違和感を覚えて顔を上げた。
『…?』
ほんのわずかな違和感だ。だが、確かに何かがおかしい。
この場所を覆っているはずのシールド――その表面が、目には見えないはずなのに、
どこか微かに揺らいでいる。まるで、静かな湖面に小石が落ちたかのように。
『レナード、どうしたの?』
クレアが不安そうに声をかける。
しかし、レナードは返事をしないまま、ゆっくりと空を見上げた。
シールドの外縁に意識を向ける。そして、次の瞬間――
――ゾワッ…
背筋を冷たいものが走った。
『…誰だ』
低く呟く。
その直後だった。空気が、軋んだ。
――キィィ……ン…――
金属が擦れるような、耳鳴りにも似た音が空間に広がる。
レナードの守護領域が、目に見えない場所で歪み始めていた。
『…これは』
レナードの瞳が険しく細まる。
――このシールドは、ただの防御ではない。
外部からのPSI観測や干渉を遮断する、極めて強力な守護領域だ。
それが今、外側から崩されている。
――力で破壊されているわけではない。
――違う。
『…干渉か』
まるで、精密な機械の歯車を一本ずつ狂わせるように。
レナードのPSIの流れに、別の波長が重ねられている。
『インターフェレンス…』
その言葉を口にした瞬間だった。
パキッ――
見えない何かが割れる音がした。
守護領域の一部が静かに、しかし確実に裂けた。
その裂け目の向こうに、ひとつの影が立っていた。
黒いコートを纏った、長身の男。
その男がゆっくりと一歩、シールドの内側へ踏み込んでくる。
『…驚いた』
男は淡々とした声で言った。
『ここまで精密な守護領域は久しぶりに見たよ』
レナードは一歩前に出て、クレアとシヴァの前に立つ。
『…何者だ』
男はわずかに首を傾けた。
その目が、静かにシヴァへ向く。
『君がシヴァか。探したよ』
その瞬間、空気が凍りついた。
男の周囲から、ゆっくりと広がる異質なPSI。
それは攻撃ではない。だが――
レナードの守護領域を内部から軋ませるほどの干渉波だった。
『なるほど』
男は小さく呟いた。
『確かに…これは、面白い』
シヴァの瞳が、静かに光を帯びる。
クレアはそんなシヴァをアーサーと共に抱き寄せた。
レナードは一瞬たりとも視線を外さないよう、この長身の男を見つめていた。
――この男は危険だ。今までのどんな敵よりも。
なぜなら…
この男は、力ではなく構造を壊してくる。自分が気付かないうちに静かに、でも、確実に内側へと忍び込んで来た。
派手な攻撃など一切なく、周りの誰にも気づかれない方法で、内側から構造を破壊していく。しかも、シヴァの名前を知っていた。
これは、esの人間がここまで追ってきたという可能性を示していた。
『誰かは知らないが、このまま出て行ってくれないか』
『それは無理な話だ。私はそこの少年に用がある』
『それは断る。…争いごとは避けたい。できれば穏便に…』
『あれ?』
レナードが言いかけた時、長身の男の背後から続けて三人の人間が表れた。全員サイキックだろうと思えるオーラを出していたが、そのうちの一人がレナードを見て
驚いて声を上げた。
『レナードじゃないか?レナード・ブラッド』
『…君は…』
『元気だったか?まさかお前がこんな場所にいるとはな。なぜその少年と繋がっている?そもそも、esを辞めてからどこで何をしていたんだよ』
この男の言葉に、レナードの背後にいたクレアから小さな悲鳴が聞こえた。
レナードが慌てて振り返る。
…そこには――
不安と恐怖に満ちた表情で自分を見つめるクレアと、怒りと猜疑の目を向けたシヴァの姿だった。




