#08 予兆
『クレア、大丈夫?』
『え?…うん、大丈夫よ』
『ジュリアンが入院してもう三か月も経つものね、気が気でないのは分かるわ』
『…ごめんなさい。ありがとう』
クレアが働く、es内のとある部署。
作業をしていた手元が止まり、ぼんやりとしていたクレアに、友人でもあるソフィーが優しく声を掛ける。
――三か月ほど前に、クレアの夫であるジュリアンが勤務する研究エリアで「事故」があり、担当していたイーサンは死亡、ジュリアンも大ケガを負って現在まで入院中で、面会謝絶となっていた。
『それに、シヴァのことも気掛かりよね』
『…えぇ』
突然父親と会えなくなったことで精神的に不安定となってしまったシヴァ。そんな彼が感情に任せてPSIを発動してしまうリスクが高いとして、「適切な」管理と共に、引き続き教育プログラムを受けさせるため「一時的に」クレアの手元から離されることになった。
――そういうことに、された。
実際にイーサンは亡くなったわけではなく、家族と共にesから逃げ出しただけだ。
あの日、ジュリアンたち三人が追い詰められている間に、イーサン家族がesを脱出する時間は充分に確保できていた。もちろん、そのことでクレアがイーサン家族に何かを感じているわけではない。むしろ、自分たちに協力してくれたことでesを追われる立場となってしまったイーサンには謝罪と感謝の気持ちしかなかった。
そもそも、事故など起きた訳ではない。
あの日、ジュリアンとシヴァがクレアの元に飛んで来た時、クレアはたまたま人のいない部屋で単独で仕事をしていた。そのため、あの一連の出来事は第三者に知られることはなく、ジュリアンの亡骸は極秘のうちに処理されていたのだ。
――最愛の夫を目の前で失ったクレアにとって、あの場で応戦や逃亡を最優先で考えることなど不可能だった。泣き叫び、動揺し、気付けばシヴァを容易く研究者たちに奪われてしまったのだ。
「クレア・フォレスト、お前が夫の死も息子の実験にも目をつむり、これまでと変わらない日常を過ごすと約束できるなら、夫は丁重に弔うし息子の命も保証しよう」
「何を言って…」
「もしお前が裏切るようなことがあれば、息子はただの実験体として好きなように扱わせてもらう」
「…」
「だがもし、協力的な姿勢を見せてくれたら、最低限息子を「人」として扱うことを約束しよう」
「…」
理不尽極まりない提案だった。
最低限「人」として…など、そもそも尊重はされていない。実験体であることには違いないではないか。ジュリアンのことだって、何が「丁重に弔う」だ。そもそも、なぜ殺されなければならなかったのか。
――自分たちがこれまで一生懸命に研究に没頭して貢献してきたはずのこの研究所は、一体何者なのか。裏の顔に気付かず、取り返しのつかない生き方をしてきてしまったのではないか。
クレアの頭も心も、あまりに非現実的すぎる出来事の連続でまったく追いつかない。
「どうだ?クレア・フォレスト、息子の命の保証も、お前自身の身の保証も、今この場にいるお前の返答次第だ」
「…」
夫を殺した者たちからの提案を受け入れるのか。
それも、自分たちにとって受け入れがたい事実しかない提案を。
だが――
「…本当に、息子の命と、人としての尊厳は守られるの?」
「あぁ、それは約束しよう。こちらとしてもお前たちの息子は替えの利かない大切な「サンプル」だ」
「…」
サンプルという言葉に、クレアはギリリと奥歯を噛む。
何という屈辱的な言葉だろうか。
息子は…シヴァは、掛け替えのない自分たちの宝物であり、一人の人間だ。まだたったの三歳。これからいくらでも輝かしい未来が待っているはずの、周りと何ら変わらない一人の人間でしかない。
母親として、ここまで言われて我が子を差し出さなければならないのか。
…だが、差し出さなければおそらくシヴァは殺されてしまう。
――クレアはジュリアンを失った悲しみの中、これ以上ない苦しみの選択を強いられていた。…どんな状況でも、最優先すべきは我が子の安全。
…それならば――
「…このことは、誰にも言わない」
「賢明な判断だ。それなら安心すると良い。お前は明日からも今日までと変わらず研究に没頭できるし、息子は、実験には協力してもらうが命の危険はないと考えてもらって結構だ」
「…」
「あぁ、だが、今後は母子で生活は出来なくなるがな」
「何言ってるの!?どういうことよ!」
「シヴァをお前の元に帰したら二人で脱走を図るかも知れない。警戒するのは当然だろう?」
「しないわ!脱走なんてしない!だから、毎日ちゃんとシヴァを私の元に帰して!」
「断る」
「…」
「そもそも、お前がこちらに何かを要求できる立場と思うな」
「…」
「お前を変わらずesに置き、シヴァを人として扱うことは、こちらからの最大限の譲歩であることを忘れるな」
「…」
こうして、クレアはジュリアンを失い、最愛の息子シヴァまで手元から奪われることとなった。しかし、表面上は周りの人間に怪しまれないよう、ホルトに指示された通りに周囲へ説明し、必死に平静を装いつつ日常を送っていたのだ。
クレアは胸元にかかったロケットネックレスをギュッと握りしめる。
ロケットの中にはジュリアンの骨が入っていた。
…見送ってあげることも出来ず、骨となって戻って来たジュリアンの一部を肌身離さず持ち歩くことで、クレアはどうにか心を保っていたのだった。




