#10 ロキの名
『ブラッドです。現場です』
「今、T-15地区か?」
『はい。今は地区の外れの辺りを――何かありましたか?』
本部の声は妙に硬かった。
それに、慌てているような雰囲気もある。
何かあったのだろうか?
「緊急の指示だ。esが何者かから襲撃を受けた」
『え?どういうことですか?』
「それはこっちも今確認中だ。ただ、被害が大きいらしく、警察に応援要請が来た」
『…それは、そちらにですか?それとも特治に、でしょうか?』
グレン達が所属する特別治安執行局は、警察からの半独立機構として成り立っている。これは、国家警察機構に属する特別局として、いざとなれば「警察ではあるが、警察の論理では動かない」という立ち位置で動けるということだ。
独自の捜査権限を持ち、万が一にでも警察内に不正や疑惑が起きれば容赦なく追及できる立場でもある。
失踪者事件においては警察本体が主導となっているため、そこに協力する形で指示も得てはいるが、こういった緊急要請の場合には、まず直属の上司である執行監からの指示を聞かないことには簡単には動けない。
「そちらも併せて確認中だが、おそらく特治も動員させないと対処に困る規模での攻撃とみている」
『…そもそもesのセキュリティは警察に頼らなくても問題はないくらいに強固なはずです。それを容易く突破できるなど、一体誰の仕業ですか?』
「だから、そこも含めて今確認中だ。出動要請がかかる可能性が高いため、二人には直接esへ行って貰いたい」
『…一度、フロスト執行監に連絡し、指示を仰ぎます』
「この事件の担当部署は異捜だ」
『承知しています。ただ、私たちは所属が違います。この事件から離れる必要があるのであれば、一度特治に戻って指示を仰ぐ必要があります』
「…ブラッド、お前は「ロキ」という名を聞いたことはあるか?」
『…』
異能犯罪捜査部――通称:異捜のトップの口から唐突に出てきた名前。
「ロキ」――もちろん、聞いたことはある。
が…
『都市伝説レベルの話として、ですが。実在するかどうかさえ怪しい人物のはずです』
「実在しないなら、こちらもわざわざコードネームを残したりはしない」
そこでいったん、通信の向こうが言葉を選ぶように黙り込んだ。
「esへの攻撃行為に、奴が関わっている可能性が浮上している」
『…可能性?それはどの程度の信憑性がある話なんですか?』
「あくまでも可能性の話だ。だが、もし本当なら異捜だけでは対応できない」
『それはそうかも知れませんが、確証も無い段階でその名を挙げるのは現場の混乱に繋がります』
思わず声が強くなる。
ノアが気になる様子でやり取りを伺い、ルーカスは別角度から息を潜めてその様子を見つめている。
「ブラッド、esの緊急事態はある意味警察の緊急事態でもあると理解しろ」
『…』
「とにかく、今直ぐにesの警護に回ってほしい。これはお願いではなく命令だ」
『…分かりました』
口の中に、じわりと苦味が広がる。
何が「esの緊急事態はある意味警察の緊急事態でもある」…だ。
警察自らがesとのズブズブの関係を認めているようなものではないか。
「お前たちの任務は今から失踪者の捜索ではなくesの警護になる。相手側にはロキがいるかも知れないので充分気を付けろ」
『ロキを犯人だと決めつけていいという話ですか?』
「現状では確実ではないが、可能性は高い。そして、安全保障上の観点から現場にはロキの身柄確保を最優先で動いてもらう必要がある」
『身柄確保?』
「あぁ。逮捕状は請求中だが、一刻を争うため、まずは身柄の確保。危険度Sだが、逃す訳にはいかない」
『確保って…簡単に言わないで下さい。相手が本当に都市伝説通りの存在なら、こちらの被害だって――』
「分かっている。だからこそ、お前たちを向かわせるんだ」
『…』
それは褒め言葉というより、「使える駒から先に前線へ出す」と言われたような
響きだった。そもそも、逮捕状など、一体何の容疑で出すというのだろう。誰も姿を見ている訳では無く、esへの攻撃もロキの攻撃「らしい」というレベルの話であるにも関わらず、逮捕状?
――すべてが胡散臭い。
「繰り返す。早急にその場を離れ、esの警護とロキの確保に動け」
『…了解しました。ですが、やはり一度フロスト執行監に話を伺っても構いませんか?』
「緊急事態だと言っているだろう。一分一秒でも惜しい。言われた通りに動け!」
返事を待たず、通信が一方的に切れた。
『…何だ、それ』
握りしめたこぶしから微かな軋みが伝わってくる。
今の会話のどこにも、納得できる説明は無かった。
都市伝説。人類最強(最凶)のヒットマン。
誰一人としてその顔を見たことは無いのに、冷酷無比な印象だけが一人歩きしている存在。
北欧神話に登場する悪神「終わらせる者」の名を借りて「ロキ」と呼ばれるようになった影。
グレンとノアが知っているのはその程度の話だ。実在するのかさえ分からない。そんな存在が、なぜ今になって唐突に現れるのか。
『ロキって…あのロキだよね?』
隣りでノアが緊張した面持ちで呟いた。
『そうらしい。だが、なぜこのタイミングで名前が出てくる?意味が分からない。だいたい、特治の中で話をさせずにesへ向かわせようとしている辺り、どうしても納得がいかない。何かおかしくないか?』
『確かにね。緊急事態なのは理解できるけど、どんな時でも情報はしっかりと現場に降ろすべきだ。何も渡さないまま「とにかく向かえ」なんて、乱暴すぎる』
『…しかも、何も把握できていないという割に、ロキがesを攻撃した犯人だと決めつけているような感じだった。それがどうにも胡散臭い』
『やっぱり一度特治に戻った方が良いんじゃない?』
ルーカスに会い、ほんの僅かではあるが確実に一歩(半歩かも知れないが)進めそうだと思った矢先に、突然「寝耳に水」の連絡。
あまりにもタイミングが良すぎる気がした。
まるで、失踪事件から自分たちを遠ざけたいのでは?と思えるほどに…
esが襲撃を受けたという話は確かに気になるし大問題ではあるが、ロキの名を出したことについては何とも腑に落ちない。
もちろん、本当なら相当厄介だが、自分たちの気を逸らせるために使う名前としてなら、これ以上ない程に効果は絶大だ。




