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第9話 長髪の若者がやってきた

 日曜日。

 秋晴れの空とは対照的に、神田家の居間には重苦しい暗雲が立ち込めていた。


 正一はタンスから一番上等な大島紬の着流しを引っ張り出して身にまとい、上座の座布団の上であぐらをかいて腕を組んでいた。

 眉間に深いシワを寄せ、目を鋭く細めている。

 まるで、これから攻め込んでくる敵将を迎え撃つ、戦国武将のような張り詰めた面持ちである。


「ちょっとお父さん。そんなに怖い顔をして座ってないでくださいな。純子のお友達がいらっしゃるだけなんだから」

 春子がちゃぶ台の上を布巾で念入りに拭きながら、チクリと釘を刺す。

「馬鹿者。ただの友達が、わざわざ親に顔を見せに来るわけがなかろう。これは宣戦布告だ。相手がどこの馬の骨であろうと、この神田正一がビシッと威厳を見せつけてやらねばならんのだ」

「はいはい」


 ガラガラッ。

 正一が喉の奥で低い咳払いをしたその時、玄関の引き戸が開く音がした。


「お父さん、お母さん。紹介するね」

 純子の少し上ずった声に続いて、一人の若い男が居間に入ってきた。

 その瞬間、正一の顔面がピクリと大きく引きつった。


 男の風貌は、正一の想像や覚悟を遥かに超えるものだった。

 耳が完全に隠れ、襟足が首にまでかかる長い髪の毛。

 まるでビートルズの真似事のようなマッシュルームカット。

 体にぴったりと張り付くような派手なサイケデリック柄のシャツを着こなし、下は裾が異様に広がったパンタロンのズボン。

 昭和一桁生まれで、丸刈りと詰め襟で育ってきた正一の目には、どこの馬の骨とも知れない「不良」か「ヒッピー」にしか見えなかった。


「……」

 正一は挨拶もせず、ただギロリと親の仇でも見るように男を睨みつけた。


「初めまして。浩と申します。今日はお休みのところ、お邪魔して申し訳ありません」

 若者は、正一の威圧的な視線を真っ直ぐに受け止め、深々と頭を下げた。


「……神田だ。座りたまえ」

 正一は腹の底から絞り出すような野太い声で言い、男に座布団を勧めた。


「浩さん、よくいらっしゃいました。お茶をどうぞ」

 春子が、一番上等の九谷焼の湯呑みを静かに置く。

「ありがとうございます。これ、つまらないものですが」

「まあ、美味しそうなケーキ。お気遣いいただいてすみませんね」

 浩は両手で丁寧にお茶を受け取った。


「単刀直入に聞くが」

 正一が、重苦しい沈黙を破って口火を切った。

「君のその髪の毛は、いったい何だ。まさか、エレキギターなんかを弾いて、定職にも就かずにフラフラしているバンドマン崩れではあるまいな?」


「お父さん!」

 純子が顔を真っ赤にして怒った。

「黙ってろ!」

「いえ」

 浩は少しも慌てず、静かに穏やかな声で答えた。

「私は小さなデザイン会社で、広告を作る仕事をしております。髪の毛は……会社の決まりが自由なものですから、つい伸ばしてしまいまして。ご不快な思いをさせて申し訳ありません」

「当たり前だ!」


 正一の怒りが、導火線に火がついたように爆発した。ドンッ!とちゃぶ台を強く叩く。

 湯呑みがガチャンと跳ねて、お茶が数滴こぼれた。


「いい大人が、耳まで毛を伸ばして男か女かもわからんような格好をして。最近の学生運動にかぶれたフーテンの仲間じゃないだろうな! 男というものはな、髪を短く刈り込み、背広を着て、国や家族のために汗水垂らして働くもんだ。だいたい、そんなちゃらちゃらした格好で、うちの大事な純子を養っていけると思っているのか!」

「お父さん、失礼でしょ! 浩さんは真面目に働いてるわよ!」

「お前は引っ込んでろ! 俺はな、こんな不真面目な格好をした男に、娘をやるつもりは毛頭ない。帰れ!」


 正一は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

 純子は目に涙を浮かべ、悔しそうに唇を噛んでいる。

 凍りつくような空気が、居間を支配した。


 その時。

「あらあら、お父さん。せっかくのお茶がこぼれちゃったじゃないですか」

 春子が、真っ白な台拭きを持ってスッと正一と浩の間に入り込んだ。その動きはあまりにも自然で、舞踊のように流れるようだった。


「いいから放っておけ! こいつには……」

「浩さん、お洋服は汚れなかった?」

 春子は正一の怒声など、蝉の鳴き声ほどにも気にしていないかのように、浩の顔を見て優しく微笑みかけた。


「あ、はい。大丈夫です。すみません」

「そう、よかった。浩さん、手土産のケーキ、本当にありがとうね。さっき玄関で、純子が荷物を持とうとしたのに、あなたがずっと重い方を持っててくれたんでしょう?」

「いえ、そんな……男として当然のことですから」

「……」


 完全に無視され、出鼻を挫かれた正一は、パクパクと口を開け閉めしている。

 さらに、縁側でずっと目を閉じて黙っていたキヨが、ゆっくりと口を開いた。


「浩さんと言ったねぇ」

「はい」

「あんた、髪は長いし服も派手だけど、手元を見ると、爪は綺麗に短く切り揃えてあるねぇ。それにさっき、玄関で靴を脱ぐとき、誰に言われるでもなく、ちゃんと靴先を外に向けて揃えてから上がったじゃないか」

 浩は、予想外のところを見られていたことに少し驚いたような顔をした。


「……はい。母から、よそのお宅に上がるときは、靴を揃えるようにと、昔から厳しく言われておりましたので」

「そうかい。立派なお母さんだねぇ」

 キヨがしわくちゃの顔をほころばせる。

「本当に。所作が丁寧で、お母様のしつけの良さがわかりますわね。デザインのお仕事というのも、手先が器用じゃないとできないんでしょう?」

 春子も相槌を打ち、すっかり浩のペースに乗せている。


「お、おい! お前たち、何を勝手に感心しているんだ!」

 完全に蚊帳の外に置かれた正一が、声を裏返して叫んだ。

 しかし、女たちは正一の怒りなど「無」であるかのように、浩の外見の奥にある人間性をじっくりと値踏みし、すでに確かな合格点を与えていたのである。


「お父様」

 浩が、改めて正一に向き直った。

「今日は、私が浅はかでした。お父様の仰る通り、ご両親にご挨拶に伺う身として、この格好は不適切でした。申し訳ありません」

「な、なんだと」

「出直してまいります。髪を切り、きちんとした身なりで、もう一度、純子さんとのお付き合いのご挨拶をさせてください」


 浩は深く頭を下げ、静かに立ち上がった。

 その目は真っ直ぐで、正一の怒鳴り声に微塵も怯えたり、感情的になったりする様子がなかった。

「ふん。何度来ても、俺は認めんぞ!」

 正一はそっぽを向いたまま、精一杯の虚勢を張った。

 浩は春子とキヨにも丁寧にお辞儀をし、純子に見送られて帰っていった。


 嵐が去った後の居間。

「はーっはっは! 逃げるように帰りおったわ。あんな軟弱な男、俺の雷が落ちれば一たまりもないわ!」

 正一は腕を組み、高笑いをして見せた。

 しかし、どこか空回りしているのは明らかだった。


「そうですねぇ」

 春子がお茶を淹れ直し、キヨの湯呑みに注ぐ。

「でもお義母さん。あの子、なかなかいい目をしていましたね」

「ああ。あれだけ怒鳴られても少しも動じない、肝の据わった男だよ。見かけによらず、芯が強くて腹が据わってるねぇ」


 女二人が、のんびりと茶飲み話を始める。

「うちの人みたいに、すぐカァーッと顔を赤くして怒鳴るより、よっぽど頼りになりそうですわね」

「違いないねぇ」

 クスクスと笑い合う嫁と姑。


「お、俺の悪口を言うな! とにかく、俺は絶対にあんな男は認めんからな!」

 正一は一人でちゃぶ台を叩いたが、女たちの静かなる包囲網と、冷静な人物評価の前では、その怒声は虚しく響き渡るだけだった。

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